姚弋仲 その2 その子供たち

後趙で相次いだ皇太子の反逆に対して、姚弋仲が石虎に呈した厳しい直言をその1で取り上げた。
では、姚弋仲自身の子育てはどうだったのか。子供たちの生き様を振り返ってみる。

姚襄
姚弋仲の第5子。立派な体躯と文武両道により、誰もが姚弋仲の後継者として認める存在だったが、姚弋仲はなかなか承知しなかった。
冉閔が後趙に反逆したとき、姚襄に石祇を救援させたが、その際「お前の才能は冉閔の十倍だ、首を取るか捕獲するまでは戻ってくるな」と言った。姚襄が冉閔に大勝して帰ってきたが、姚弋仲は身柄を確保できなかったことに怒り、杖で百回叩いた。
後趙滅亡後、姚弋仲は東晋を奉じるべきと遺言したため、東晋に帰順した。帰順のため南下する過程で前秦と戦闘になり、大きな被害を受けたようである。
羌族の武力と姚襄の英才は東晋でも大いに評価されたが、一方で警戒されることにもなった。東晋の有力者である殷浩は、姚襄に対してしばしば刺客を送ったが、刺客が姚襄に心酔したという。まるで劉備のようなエピソードであり、文武の才だけでなく人柄も魅力的だったのだろう。とはいえ、漢人による正統王朝とされる東晋の爛れた実態と殷浩の嫌がらせに愛想が尽きたのか、殷浩の北伐に合わせて姚襄は東晋に反逆した。
殷浩一味は撃破したものの、その後東晋の反攻に敗れた。中原(黄河中下流域南岸の平野部、現在の河南省に相当)から北に向かうよう周囲は説得したが、姚襄は中原に拘り、洛陽を奪取しようとした。洛陽攻略の成果が挙がらないうちに桓温が荊州から攻め上がってきた。姚襄は伊水(洛陽の南を流れる川)で桓温を迎撃したが、激戦の末敗れた。
姚襄は中原を諦め、羌の根源地を目指して西方に向かおうとしたが、既に氐族の前秦が根付いた後だった。苻堅(この時点では一部将だった)らによる攻撃を受け、姚襄は敗死した。

姚襄は確かに智勇兼備の英傑だったのだろうが、その迷走ぶりを見るに大略を欠いていた。
主な反省点を挙げると以下のようになる。
1.もっと早く河北か西方での地盤固めに目を向けるべきだったのではないか
2.権力闘争で腐敗した建康朝廷より、荊州の桓温を頼るべきだったのではないか
3.英才を恃むよりも東晋への忠誠を示すべきだったのではないか

結局のところ、国主として桓温・苻堅らと対抗するには器が足りなかったのだ。
姚襄を後継者とすることに躊躇した姚弋仲だが、こういった資質まで見抜いていたのかもしれない。

姚萇
姚弋仲の第24子(※)で姚襄の異母弟。姚襄敗死後に弟達や羌族を束ねて前秦に帰順した。
前秦の将軍として、各地の戦場で功績をあげた。慕容垂とともに東晋攻略に積極的であり、攻略決行にあたって龍驤将軍に任じられた。これはもともと三品相当の雑号将軍位であったが、苻堅の即位前における肩書であり、かつて苻洪も受けたとされる。前秦で特別な意味合いを持つ龍驤将軍位の授与は、姚萇に対する苻堅の信頼と期待を裏付ける。
姚萇は苻融の傘下として東晋征伐の前峰に参加したが、前秦は淝水で記録的な大敗を喫した。姚萇は無事長安まで帰還できたが、続いて起こった慕容泓の反乱に派遣された。大将の苻叡は苻堅の息子だったが、慕容泓を侮って速戦を図った。それに対し、姚萇は関中(渭水盆地周囲の別名、現在の陝西省付近)に残った慕容部が関東(函谷関より東側)の郷里に帰ろうと死に物狂いになっていることを告げて諫めたが、苻叡は聞き入れず結果敗死した。
姚萇は使者を派遣して苻堅に謝罪したが、苻堅はその使者を殺した。詰め腹を切らされる状況が確定的になった姚萇は、前秦から逃走したのだが、その彼に対して、天水尹氏をはじめとする陝西の氏族達が集結した。
(前秦と関中豪族との懸隔はもう少し議論されて良い。ただし、自立した姚萇はいきなり秦王を名乗った。苻堅との不俱戴天を国号で示すには早すぎた。また、歴史上同名の国に禅譲した事例はなく、苻堅から禅譲を受けるルートはこの時点で閉ざされていた。姚萇は中華のお作法をどれくらい理解していたのか)
まずは関中慕容部(のちの西燕)の慕容沖と結んで苻堅に対抗した。続いて慕容沖が苻堅の籠る長安攻略に取り掛かった際、派兵して長安を得るべきと姚萇に進言する者も居たが、関東を本貫地とする慕容部では長安を維持できないと見越して静観し、周辺の確保に徹した。
苻堅は、慕容沖の圧力に耐えられず五将山(陝西省宝鶏市麟遊県にある標高1640mの山)に逃げたのだが、姚萇はそれを包囲し苻堅の身柄を得た。姚萇は苻堅に禅譲を求めたが、苻堅は全く応じず罵詈雑言を吐くばかりであった。厚遇していた姚萇の裏切りに激怒する苻堅の気持ちはある程度察せられる。苻堅自身が死を求めていたこともあり、姚萇は人を遣って苻堅を絞殺させた。ただ、関中における苻堅の輿望は大層なものであり、皇帝弑殺の汚名とともに生涯の失点となった。
長安を掌握した慕容沖だったが、なかなか関東に帰ろうとしなかったため配下の鮮卑に殺された。その後、西燕勢力は東へ去っていった。姚萇は長安に入城して帝位に即いた。
その後は前秦の苻登と生涯にわたって死闘を繰り広げた。姚萇VS苻登の戦歴はそれだけで記事1つ分になるくらい濃密だが、政治・策謀で概ね優位だった姚萇でも、しばしば敗北するほど苻登は戦争に強かったというのが概略である。
後に取り上げる後秦の名将姚碩徳すら苻登には負けている。
苻登への恨みが募った影響だろうか、姚萇は王の待遇で埋葬していた苻堅を掘り起こして鞭打ちした(晋書姚萇載記)。にもかかわらず、姚萇が苻堅の像を造って勝利祈願を行ったという信じがたいエピソードも残されている(晋書苻登載記)。苻堅への倒錯した想いは姚萇臨終の間際にも記されており、苻堅が出る悪夢を見た姚萇は「陛下を殺したのは兄の姚襄であって、私の罪ではない」と苦しい言い訳の懺悔をした(晋書姚萇載記)。
姚萇は宿敵苻登を残したまま西暦393年に死んだ。姚萇は親族・重臣との連帯を重んじるよう息子姚興に言い残した。姚興はそういった者達と連携して早々に苻登を倒すと、後秦の全盛期を築き上げた。

苻堅殺害から悪役扱いされることの多い姚萇だが、彼の置かれた状況を踏まえると仕方ないように思う。生涯を振り返ると大逆無道な人柄はあまり感じず、少しばかり中華のお作法に疎かっただけであるように見える。
苻登相手に勝ちきれなかったが、関中割拠に至る各局面の判断は冴え渡っており、後秦繁栄の種は姚萇の頃に蒔かれていて、姚興はそれを収穫しただけという印象を持つに至っている。

※姚襄の享年について
24子の姚萇は、5子の姚襄より世代1つ分くらい若くてもおかしくない。姚襄の没年は357年で数え27歳とされるが、姚萇の生年は330年であり、むしろ姚萇が年上になってしまう。晋書における姚襄の享年は間違っているであろう。

姚緒
姚萇の同母弟。
姚萇に重宝され、姚萇が長安を支配すると、姚緒を司隷校尉に任じ、首都圏の守備を担当させた。
姚興即位後は重要拠点の安定(中国には同名の地が沢山ある、寧夏回族自治区から甘粛省にかけて設けられていた涼州安定郡を指すとされる)に封じられ晋王位を授けられた。
姚緒は河東エリアにおける後秦の支配域拡大に貢献した。同エリアにて行われた柴壁の戦いで、後秦は北魏に惨敗したが、姚緒は蒲坂の守りを固め、拓跋珪の更なる侵攻を食い止めた。
姚緒は丞相(非常設の宰相位)まで昇ったが、まもなく死亡した。没年は不明である。

姚碩徳
姚萇の同母弟。
姚萇と共に苻登率いる前秦と対峙した。前秦相手にしばしば敗北を喫しながらも、勢力維持に貢献した。
姚興の代になってからの姚碩徳は、西方への領域拡大に多大な貢献をした。
まず400年、西秦(鮮卑系)に侵攻すると、一時は補給路を断たれ危機に陥ったものの、援軍の姚興と連携し勝利。西秦は降伏し一度目の滅亡を迎えた。(後秦の退潮後に再興した)
続いて401年、姚碩徳は後涼討伐を進言し姚興はこれを承認。姚碩徳は後涼からの軍事的抵抗に悉く勝利し、後涼は降伏した。(後涼の滅亡そのものは403年、北涼・南涼の挟撃を受け、進退窮まって後秦に臣従した時である)
更に405年、姚碩徳は後仇池にも兵を派遣し、四方を山に守られたこの地でも戦勝を続けた。後仇池は息子を人質に出すことで滅亡を逃れたが、しばらく後秦に臣従した。(その後自立した)
姚碩徳の没年は不明だが、姚萇の廟に合祀された412年時点で既に故人であったことになる。

東の姚緒と西の姚碩徳のコンビは、まさに後秦の飛躍を象徴する両翼であった。
姚興は姚緒と姚碩徳を特別に優遇し、臣民の命名に緒・碩徳を使わないよう言い渡す(歴代皇帝待遇)ほどであった。また、手に入れた馬や車、装飾品なども二人のものを先に選ばせ、国家の重大事も必ず二人に相談した。
実力ある叔父達と反目したら後秦が危ういという思惑は勿論あるだろうが、年長の叔父達に礼を尽くすことで、姚興自身の君子ぶりをアピールしたのかもしれない。

姚紹
姚萇の異母弟。姚興の時代にも武将として活躍したが、特筆すべきは姚泓時代の働きであろう。
東晋による後秦攻略にあたって、劉裕は黄河沿いの要衝である潼関に王鎮悪(前秦の名臣王猛の孫)を派遣し、北方の黄河渡河地点である蒲坂には檀道済を派遣した。対する後秦で蒲坂を守備するのは尹昭(後秦の名臣尹緯を輩出した名門、天水尹氏)であり、潼関の守備を姚紹が総括することになった。檀道済配下の名将、沈林子(宋書の著者沈約の祖父、名門の呉興沈氏)は蒲坂を抜く困難さから潼関に転進するよう助言し、檀道済はそれに従った。
この後、姚紹が王鎮悪・檀道済連合軍(+沈林子)とどのように対峙したか、史料によって分かれる。
晋書姚泓載記・資治通鑑では、沈林子が度々姚紹を出し抜き、敗戦のショックで姚紹発病、最後に血を吐いて死んだとする。
宋書沈林子伝・南史沈約伝では、姚紹の重包囲に退こうする檀道成らを沈林子が叱り、少数の手勢で姚紹を攻撃し成果を収めた。その後、東晋軍は優勢を築きつつあったが、決着前に姚紹が背中のできものを理由に死亡した。
日本語版Wikipediaにおける沈林子の記事(2024年3月15日時点)では、姚紹の重包囲に檀道成が兵を退き、沈林子が劉裕に謝罪したと記されているものの、根拠となるソースが見つからなかった。
姚紹は417年に陣中で病没した。姚弋仲の没年が352年なので、最低でも数え65歳の高齢であった。護国の要を失った後秦は程なく滅びた。

劉裕と姚泓が互いに飛車角を繰り出し潼関・蒲坂という東西を分ける2大要衝で衝突、斜陽の後秦が華北最強国だった意地を見せ頑強に抵抗、という展開はなかなかドラマティックなのだが、この一連の戦闘を詳しく解説した日本語ソースは見つからなかった。もっと盛り上がってほしい。
姚紹は、東晋と対峙する以前に赫連勃勃の侵攻も撃退している(ちなみにこの時、尹昭も従軍している)。東晋との最終決戦で失点していたのかもしれないが、最期まで後秦を支えた良将と評するべきであろう。

総括
姚弋仲は子沢山で知られ、42人居たという(男子だけのカウントか、女子込みか、調べたがよく分からなかった)。70を超えた当時としては異例の長寿がその一因として挙げられる。また、族長である彼に対し、羌族内部で積極的に通婚する風習があったとも考えられる。
子供達の母方氏族は多岐に渡るはずなのだが、少なくともこの世代で固い結束力を見せたことに注目したい。これは姚弋仲の薫陶あってのものだろう。
後世から歴史を振り返ると、後秦は姚弋仲の息子たちの働きによって拡大し、その世代の減失に伴って終焉したように見える。各々の資質があと一歩という感はあるものの、姚弋仲の子育ては、石虎への苦言に恥じないものであったと判断できる。
娘達も各々の嫁ぎ先で立派な振る舞いをしたと予想される。その消息が分からないのはとても残念である。

今回は書き上げるまでにかなり苦労した。記事のボリュームもあるが、姚紹VS沈林子の推移に納得できず、沈約による歴史改竄を疑ったのが深淵の入り口だった。素人には荷が重い課題であり、学術方面からの成果を期待したい。

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