楽毅論 夏侯玄は中華史上の英雄をどう評したか

楽毅論は三国魏の夏侯玄が著し、戦国燕の将軍として著名な楽毅を改めて称揚したものである。
夏侯玄は当時を代表する名士であり、オピニオンリーダーでもあったが、司馬師との対立により刑死した。

楽毅論は専ら書道において話題となることが多い。東晋の書聖である王羲之が楽毅論を書の題材とし、真筆は失われたものの、その書跡は楷書の模範として現在まで尊重されているからだ。
六朝から唐にかけて、双鉤填墨という書跡を写し取る手法がしきりに行われた。真筆の上に薄い紙を置いて輪郭だけを線でなぞり(双鉤)、そのあと輪郭の内側を墨で埋める(填墨)のである。こうして書の正確な複製が得られるようになり、多くの書家が王羲之を臨書(手本を見ながら書くこと)する機会を得た。
正倉院に所蔵されている宝物として、光明皇后(藤原不比等と県犬養三千代の娘で、聖武天皇の妻)による楽毅論は有名だが、これは双鉤填墨によって得られた王羲之の書跡を臨書したものとされる。

光明皇后筆の楽毅論は正倉院のデジタルアーカイブで全文を閲覧できるため、それに準拠する形で原文を作成した。中国で翻刻されたもの(いくつかあるが、故宮典蔵資料検索の「快雪堂帖(二)冊 晋王羲之楽毅論」を参照した)と比較すると、光明皇后筆には脱字が指摘されているため、かっこ書きで示した。
早稲田大学図書館には漆山天童(1873-1948、山形県出身の文学者、幸田露伴に師事)筆の楽毅論があり、とても読みやすい。
句読点と訳は適当なので、書道のテキストをあたった方が良いだろう。

樂毅論      夏侯泰初(夏侯玄の字は泰初もしくは太初)
世人(多)以樂毅不時拔莒即墨為劣。是以叙而論之。
夫求古賢之意、宜以大者遠者先之。必迂迴而難通然後已、焉可也。今樂氏之趣、或者其未盡乎,而多劣之。是使前賢失指於將來。不亦惜哉。觀樂生遺燕惠王書、其殆庶乎機、合乎道、以終始者與。其喻昭王曰、「伊尹放太甲而不疑、太甲受放而不怨、是存大業於至公、而以天下為心者也。」夫欲極道之量、務以天下為心者、必致其主於盛隆、合其趣於先王。苟君臣同符、斯大業定矣。于斯時也、樂生之志、千、載、一、遇、也。亦將行千載一隆之道。豈其局蹟當時、止於兼并而已哉。夫兼并者、非樂生之所屑、彊燕而廢道、又非樂生之所求也。不屑苟得、則心無近事、不求小成、斯意兼天下者也。則舉齊之事、所以運其機而動四海也。夫討齊以明燕主之義、此兵不興於為利矣。圍城而害不加於百姓、此仁心著於遐邇矣。舉國不謀其功、除暴不以威力、此至德全於天下矣。邁全德以率列國、則幾於湯武之事矣。樂生方恢大綱、以縱二城、牧民明信,以待其弊、使即墨莒人、顧仇其上、願釋干戈、賴我猶親、善守之智、無所之施、然則求仁得仁、即墨大夫之義也。任窮則從,微子適周之道也。開彌廣之路、以待田單之徒、長容善之風、以申齊士之(志)、使夫忠者遂節、通者義著、昭之東海、屬之華裔。我澤如春、下應如草、道光宇宙、賢者託心、鄰國傾慕、四海延頸、思戴燕主、仰望風聲、二城必從、則王業隆矣、雖淹留於兩邑、乃致速於天下。不幸之變、世所不圖、敗於垂成、時運固然。若乃逼之以威、劫之以兵、則攻取之事、求欲速之功、使燕齊之士、流血於二城之間、侈殺傷之殘、示四國之人、是縱暴易亂、貪以成私、鄰國望之、其猶犲虎。既大墮稱兵之義、而喪濟弱之仁、虧齊(士)之節、廢廉善之風、掩宏通之度、棄王德之隆、雖二城幾於可拔、覇王之事、逝其遠矣、然則燕雖兼齊、其與世主何以殊哉、其與鄰敵何以相傾。樂生豈不知拔二城之速了哉、顧城拔而業乖、豈不知不速之致變、顧業乖與變同。由是言之、樂(生)不屠二城、其亦未可量也。

私訳
世の人は楽毅が速やかに莒・即墨を抜けなかったため、劣っていると考えている。このため、自身の考えを述べてこれを論ずることにした。
古の賢人の意図を探ろうとするなら、まずは大きく遠いものから始め、後回しにしてよいのは回りくどく理解しにくい場合のみである。いま楽毅の意図について思考を尽くすことなく劣っていると結論付ける者が多い。これでは先賢から将来の指針が得られず、大変惜しいことだ。
楽毅が燕の恵王(楽毅を疎んで召還し、趙亡命に追い込んだ)に送った書(報遺燕恵王書:史記 楽毅列伝 第二十)を見ると、時宜と仁道に終始かなっている。楽毅は昭王(恵王の父、楽毅を信任し燕の全盛期を築いた)を諭して言った「伊尹(殷の名臣)は太甲(湯王の孫で、後に殷王となる)を追放しながら疑わず、太甲は追放されたが怨まず、これは大業を最も公平にし、天下の大事に心を砕く者達だったのだ」
楽毅は仁道による治政の奥深さを極め、私心無く天下の大事を自らの務めとして励む者だったので、必ず主を隆盛に至らしめ、その志は先王(昭王)と合致していた。仮に君臣の気持ちが一致すれば、大業は定まるのである。この時、楽毅の志は千年に一度の出遭いを果した(昭王+楽毅を戦国どころか春秋や秦・漢を通じても最高のコンビだと評価している?)。そして、千年に一度となる仁道の隆盛をまさに行おうとした。
その当時における目論見が、どうして斉の併合だけに限られようか。斉の併合を望まなかったわけではないが、燕を強くして仁道を廃れさせるのは楽毅の本意でなかった。潔く不正な手段に頼らず、目先のことに心を留めず、小さな成功を求めない、これは天下を平定しようとする意図である。
斉での事業は、その機会を利用して四海(世界)を動かすためである。斉を討つのは燕王の大義を明らかにするためである。これは利益のために起こす戦争ではない。城を包囲しても百姓に危害を加えない。こうして仁の心は遠近に顕れる。国全体が自分の功を求めず、暴力を排除して威力を用いない。こうして徳が天下全体に行き渡る。すべての徳で凌駕して列国を率いるのは、殷湯王・周武王の事業に相当する。
楽毅は物事の根本を修復し、両城(莒・即墨)を解放し、信を明らかにして人民を治め、彼らが疲弊するのを待ち、即墨・莒の人々が長上の過ちを振り返り、戦いを止めるよう願い、楽毅を親のように頼り、楽毅の知恵を善く守り、施しは受けず、仁を求めて仁を得る、これは即墨大夫の義である。窮地に陥ったら従う、これは微子(紂王=帝辛の兄、周に亡命し殷の滅亡後も祭祀を保った)が周におもむいた道である。広い道を開けて田単(謀略で楽毅を亡命させ、反撃の狼煙を上げた)のような者を待ち、寛容と親切の風潮を育み、斉の士人に自身の志を伝え、忠なる者には忠節を尽くさせ、賢者には義を表させる。東海(山東半島の先にある海:かつて山東には東海郡があった)を照らし、華裔(中華から遠い地方、もしくは中華と遠地)を従える。自分が春のように潤せば、下は草のように応じる。仁道は宇宙を照らし、賢者は心を託し、隣国は心から慕い、四海は首を伸ばして燕王の推戴を思い、評判を尊敬して慕い、二城(莒・即墨)も必ず従い、こうして王業が隆興する。両邑(莒・即墨)が滞留を続けても、すぐ天下に広まるだろう。不幸な政変は図られることなく、完成前に敗れる、これは時代の運命である。
もし威をもって迫り、兵をもって奪い、攻め落とすことで速やかに功を得ようと欲求し、燕と斉の兵を二城の間で流血させ、おびただしい殺傷の残酷さを四方の国の人に示し、暴力と混乱にふけり、貪欲に私欲を満たそうとすれば、隣国はこれを望んで、ただの猛獣とみなし、挙兵の大義は失われ、弱き者を助ける仁は喪われ、斉の人々の誠実さは損なわれ、正直と親切の精神は廃され、学識の深さは隠され、王徳の隆興は放棄され、二城をほぼ抜いたとしても、覇王の事業、その完成は遠ざかっただろう。燕が斉を併合したとしても、それと世主(斉の湣王のことか)とは何が違うのだろうか。なぜその国は近隣の敵とこれほど対立しているのだろうか。
楽毅は早々に二城を抜くことができると知らなかったわけではなく、城を抜くことが大業にもとると考えていたのではないか。城攻めの長期化が情勢の変化を来すリスクを知らなかったわけではなく、大業にもとることも同様に情勢の変化を来すと考えていたのではないか。これゆえに言う、楽毅が二城をほふらなかった行為、それは未だに計り知れない。

想像以上に熱量の高い評論だった。
夏侯玄は東漢末の戦乱を勝ち残ってきた曹魏における実利重視・尚武の風潮にあって、徳治を再び隆興させようと考えていたのだろう。
歴史を振り返ると、司馬昭は相当に影響を受けていた可能性がある。諸葛誕の乱後、征呉を企図していた司馬昭だが、王基の反対を素直に受け入れ、征呉を中止した。予想以上に早く征蜀を成功させ、間髪入れず征呉に突き進もうとした鄧艾の行動を、なぜ司馬昭は問題としたか。大きすぎる軍功が司馬昭の立場を脅かすという点だけを今まで考えていたが、軍事力に頼りすぎる鄧艾のやり方は、司馬昭の大業にとってむしろ妨げとなると評価していたのかもしれない。
王羲之が楽毅論を書写した動機として、東晋の国家経営を危うくする北伐回避のため孤軍奮闘するも聞き入れられない情況にあった王羲之が、楽毅の莒・即墨二城に対する不侵戦術は愚昧な戦術ではなく、仁道による無血攻略を狙った上策とする夏侯玄の論に強く共感したことにある、とする説が示されており(大渕貴之 「光明皇后筆『楽毅論』に見える重文符号」)、大変興味深い。王羲之はどういう気持ちでこの評論に再びスポットライトを当てようとしただろうか。東晋の歴史を知るだけに少し悲しくもある。
光明皇后にしても、国家権力の中枢に居た彼女の関心は、紙上に記された王羲之の書跡だけだったろうか。

実は、北宋の政治家・文豪・書家である蘇軾(号を東坡居士としたため、蘇東坡と呼ばれる)も楽毅論を著している。
こちらは夏侯玄の著作を踏まえつつ、彼と異なり楽毅に対する否定的評価を示した。大まかな論旨は次のようなものである。
楽毅は斉に侵攻するという覇道を選択しながら、残り2城となったところで王道に色気を出して、斉の民から心服されようと攻撃の手を緩めた。燕による斉の併呑が晋・楚・趙・魏・韓全ての国益に反する以上、楽毅の中途半端な態度によって生じた戦争の長期化は決して肯定できず、失敗は必定だった。
原文と現代語訳に興味がある場合は、「断箋残墨記」というサイトを参照されたい。
渡辺省のホームページ内にある蘇東坡文集では現代語訳のみとなっているが、楽毅論だけでなく魏武帝(曹操)論や諸葛亮論などもある。渡辺省のサイトは通鑑紀事本末の現代語訳を中心にしばしば訪問している。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次