宇文護執政期(長文の資治通鑑抄訳)

宇文護に関しては、宇文泰の傍系でありながら北周を専権し、皇帝を2人殺し、にもかかわらず北斉や南朝陳相手に目立った軍功が無い、とマイナスイメージが付随しがちである。
その宇文護に注目した動機は4つある。
1つめ、宇文泰の英邁は南北朝最高と評するべきだが、爾朱栄と同様に一代限りの権勢で終わってもおかしくなかった。それを北周王朝という宇文氏世襲に移行させたのは宇文護でないか、という動機。
2つめ、北斉への逆転勝利については宇文邕(北周の武帝)の功績が注目されがちだが、宇文護による地道な国力の蓄積があったものと思われ、宇文護は劉恒(西漢の文帝)や拓跋嗣(北魏の明元帝)のような役割を果たしていたのではないか、という動機。
3つめ、宇文邕死後の北周はあっけなく終焉を迎えるが、その遠因が宇文護の政権運営もしくはその死に由来するのではないか、という動機。
4つめ、英雄が傍系を後継者に指名する場合、後継者には相応の資質がある(たとえば、カエサル→オクタウィアヌス)。宇文泰ほどの者が指名したのだから、宇文護がベストの人選であり、そこには納得できる答えがあるはずだ、という動機。

資治通鑑で宇文護執政期における西魏・北周の動向を追ってみた、長文である。
年は西暦だが、月は旧歴に準じる。

資治通鑑抄訳 556年10月~572年3月

556年
10月、西魏の安定公(諡号は文)である宇文泰は北巡から帰って牽屯山(甘粛省平涼市にある山)に到着したところで病気になった。宇文泰は馬を飛ばして中山公の宇文護を召した。宇文護は涇州(甘粛省平涼市一帯)に到着して宇文泰と会い、宇文泰は宇文護に言った「私の諸子はみな幼く、外敵は手強い。天下のことは汝にかかっている。力を努めて我が志をなしてほしい」
宇文泰は雲陽(陝西省咸陽市涇陽県付近)で死んだ。宇文護は長安(陝西省西安市、西魏の首都)に還って喪を発した。世子(世継の子)である宇文覚(当時数えで15歳)が位を継いで太師・柱国・大冢宰となり、同州(陝西省渭南市一帯、北魏の華州を西魏末期に改称した、宇文泰はこの地に覇府=巨大幕府を置いた)に出鎮した。
中山公の宇文護は名声や地位がもともと卑しかった。宇文泰から後事を託されたが、群公はおのおの執政することを考え、宇文護におとなしく服従する者は居なかった。
宇文護が大司寇の于謹に計を問うたところ、于謹は言った「私は早くから先公(宇文泰)より非常の知遇をこうむり、恩は骨肉のように深い。今日のことは、争えば必ず死者がでる。もし人々に対抗する形で策を定めれば、あなたへの譲位は成し遂げられない」
明日の群公会議で于謹は言った「むかし魏の帝室が危機に陥り、安定公(宇文泰)が居なければ今日を迎えられなかった。いま公(宇文泰)は一旦世を違えた。世継の子は幼いが、中山公(宇文護)は宇文泰の兄の子として親しく、さらに彼は宇文泰から後事を託された。軍国のことは、彼に帰するのが理にかなっている」
口調は声高で表情は厳めしく、人々はみな身をすくめた。宇文護は言った「これは我が家のことであるので、私は愚鈍ではあるけれども、どうしてあえて辞退しましょうや」
于謹は平素より宇文泰と同格だったので、宇文護は常に彼へ拝礼していた。ここに至り、于謹は立ち上がって言った「公(宇文護)にもし軍国を統べる理があるなら、于謹らはみな従う」
こうして于謹は宇文護に再拝した。群公は于謹に迫られ、また再拝し、こうして衆議ははじめて定まった。宇文護は内外を綱紀(国家を統べ治める)し、文武を安撫し、人心はついに安定した。

12月、西魏は安定文公(宇文泰)を葬った。岐陽(陝西省宝鶏市、古国周はここを発祥とする)の地に世子の宇文覚を封じ、周公とした。宇文護は宇文覚が幼弱なため、早々に正位に就かせて人心を定めようとした。西魏の恭帝(拓跋廓)は詔で周に禅譲した。大宗伯の趙貴が節を持ち冊を奉じ、済北公の拓跋迪(拓跋晃の玄孫=孫の孫)に皇帝の爾綬を持ってこさせた。恭帝は大司馬府に退去した。

557年
1月、周公(宇文覚)は天王に即位した。柴を燃やして天に告げ、露門(宮廷の門)で百官との朝会を行った。文公の宇文泰を文王と追尊し、亡母(馮翊公主の元氏、元脩=北魏孝武帝の妹)を文后とした。大赦した。西魏の恭帝は宋公に封じられた(古国周は殷の王族を宋に封じている)。木徳で水徳の魏を承け、旧正月の時でも服の色はなお黒かった(黒=水徳である魏の色)。李弼を太師とし、趙貴を太傅とし、大冢宰の独孤信を太保とした。大宗伯で中山公の宇文護は大司馬となった。
周王(宇文覚)は円丘で祀りを行った。
自身の先祖は神農から出ているとし、神農を二丘(円丘・方丘)に配した。始祖の献侯(宇文莫那)を南北郊に配し、文王(宇文泰)は明堂(古代の帝王がそこで政教を明らかにしたとされる建物)に配して廟号を太祖とした。
方丘で祀りを行った。大社で祭りを行った。市門税(市門を通行する時にかかる税)を免除した。
太廟を享ける(供えものをする)のに鄭玄の義を用い、太祖と二昭・二穆(昭・穆は祖先を一代ごとに交互に分けた分類)を立てて五廟とし、その有徳者は別に祧廟(遠祖の廟)として毀さず(礼記にある天子七廟を太祖・二昭・二穆+二祧とするのが鄭玄の解釈:古橋紀宏 「鄭玄の天子宗廟説と緯書・『偽古文尚書』」)。
南郊で祀りを行った。元氏を王后に立てた。王后は元宝炬(西魏文帝)の娘、晋安公主である。
北斉の南安(湖北省黄岡市黄州区)城主である馮顯が周に降ることを請うた。周の柱国である宇文貴は豊州刺史で太原出身の郭彦に兵を授けてこれを迎えさせ、ついに南安に籠った。
吐谷渾が周の涼・鄯・河3州に侵攻してきた。秦州都督は渭州刺史の于翼を救援に向かわせたが、于翼は従わなかった。属僚はみな救援するよう言ったが、于翼は言った「攻め取る術は、蛮族の得意分野でない。今回の襲来は辺境の掠奪に過ぎない。掠めて獲るところが無ければ、軍勢はおのずから去る。軍に苦労させて向かっても、及ばないだろう。私の決裁は既に終わっており、もう言わない方が良い」
数日して消息が伝えられたが、はたして于翼の考えたとおりであった。

2月、周王は東郊で朝日を見た(漢書・賈誼伝に「三代之礼、春朝朝日」とある、三代は夏・殷・周)。太社(=大社でよいか)で祭りを行った。
周の楚公である趙貴、衛公である独孤信は、もともとみな宇文泰と同格であり、中山公から晋公に進んだ宇文護の専政となり、みな怏々として不服だった。趙貴は宇文護の誅殺を謀ったが、独孤信はこれを止めた。開府儀同三司の宇文盛がこれを告げた。趙貴が入朝した際、宇文護は彼を捕らえて殺した。独狐信は免官とした。
周は于謹を太傅とし、大宗伯の侯莫陳崇を太保とし、晋公の宇文護を大冢宰とし、柱国で武川出身の賀蘭祥(母が宇文泰の姉)を大司馬とし、高陽公の達奚武を大司寇とした。
周の人が魏の恭帝(拓跋廓)を殺した。

3月、宇文護は趙公(諡号は景)の独狐信の名声が重いため、表立っての誅殺を欲さなかった。独狐信は迫られて自殺した。

4月、周王は成陵(宇文泰の陵墓)に謁して、3日後に宮へ還った。2日後、周王は太廟を享けた。
周の儀同三司である斉軌は御正中大夫(大冢宰、つまり宇文護の属官)の薛善に言った「軍国の政は天子に帰するべきである。どうしてまだ権門にあるのか」
薛善は宇文護に報告し、宇文護は斉軌を殺した。薛善は中外府司馬(都督中外諸軍事の補佐官)となった。

7月、周王は太廟を享けた。

8月、周王は太社で祭りを行った。

9月、周の孝愍帝(宇文覚)は剛果(剛胆で決断力がある)で、宇文護の専権を憎んだ。司会の李植は宇文泰の頃から相府司録となり、朝政に参与していた。軍司馬の孫恒も久しく権力の中枢に居た。宇文護の執政におよび、李植・孫恒は宇文護と相容れないため恐れ、宮伯の乙弗鳳・賀拔提らと共に周王(宇文覚)へ宇文護の譖訴を行った。李植・孫恒は言った「宇文護が自ら趙貴を誅殺して以来、権威は日ごとに盛んとなり、謀臣・宿将は争うように彼へ付いている。大小の政はみな宇文護が決する。臣(臣下の一人称)が彼を観るに、臣としての節度を守らないつもりであろう。願わくは陛下、早く彼を図るよう」
宇文覚はその通りだと考えた。
乙弗鳳・賀拔提は言った「先王(宇文泰)の明をもってすら、なお李植・孫恒に朝政を委ねた。いまその2人が事に付くのだから、事を成すのに何の患いがあろうか。また宇文護は常に自分を周公(姫旦)に比しているが、臣が聞くところ周公の摂政は7年であったという。陛下は7年もこのように邑邑(志を得られず憂える様子)でいるというのか」
宇文覚はますます彼らを信任した。後園での講習として多くの武士を引き連れ、その勢いで宇文護を捕らえようとした。李植らは宮伯の張光洛を共謀者として引き込み、張光洛が宇文護に報告した。宇文護は李植を梁州刺史、孫恒を潼州刺史として出向させ、その謀を散じようとした。のちに宇文覚が李植らを思って召そうとするたびに、宇文護は泣きながら諫めて言った「天下で兄弟より親しいものは無い。もし兄弟がなお疑いあっているなら、他人で誰が信じられようか。太祖は陛下がまだ若いので、臣に後事を託した。臣の情は血族の親と君臣の義を兼ね、股肱(腹心、最も頼りになる家来)としての役割を全うしたいと切に願っている。もし陛下が万機(帝王の政務)を親覧(自らみること)し、四海(世界)に威を加えたなら、臣が死んだ後もなお生きているように思える。ただ恐れるのは、臣が居なくなった後、よこしまな者が志を得て、陛下に不利となるだけに留まらず、社稷(社=土地の神と稷=五穀の神が転じて、国家そのものを指すようになった)が転覆しそうになることである。こうなれば臣が九泉(死後の世界)の太祖に会おうにも面目がない。また、臣は既に天子の兄となり、位は宰相に至る。これ以上何を求めるというのか。願わくは陛下、讒臣の言葉を信じて、骨肉を捨て去ることなかれ」
宇文覚は召集を止めたが、なお内心では宇文護を疑っていた。
乙弗鳳らはますます恐れ、密謀は甚だしくなった。期日を定めて群公を酒宴に召し入れて、それを利用して宇文護を捕らえて誅殺する計画となった。張光洛がまた宇文護に報告した。宇文護は柱国の賀蘭祥・領軍の尉遅綱らを召して、対策を謀ったところ、賀蘭祥らは宇文護に廃立を勧めた。当時は尉遅綱が禁軍(宮城の近衛兵)を総括しており、宇文護は尉遅綱を入宮させたうえで乙弗鳳らを議事に召し、彼らが到着次第捕えて宇文護の家に送った。そして宿衛の兵は解散させた。宇文覚がちょうど気づいた頃には、内殿に独りあるのみで、宮人に命じて武器を取り、自分を守ろうとした。宇文護は賀蘭祥を派遣して退位を迫り、宇文覚が即位前に住んでいた家へ幽閉した。ことごとく公卿を召して会議し、宇文覚の王位を廃して略陽公とし、岐州刺史で寧都公の宇文毓を王に迎えて立てた。公卿はみな言った「これは公(宇文護)の家の事なので、あえて命令を聴かないことなどない」
こうして乙弗鳳らを宮門の外で斬り、孫恒もまた誅殺された。当時、李植の父である柱国大将軍の李遠は弘農(河南省三門峡市霊宝市)に出鎮していた。宇文護は李遠と李植を朝廷に召還した。李遠は変事を疑ってしばらく考え込んでいたが、こう言った「大丈夫(李遠自身)は忠鬼となるのであって、叛臣になってよいものか」
ついに召還へ応じた。長安に到着すると、宇文護は李遠の功名が平素より重いことから、なお彼の身を全うさせようと考え、引見して言った「あなたの子には叛逆計画があり、私を殺すだけに止まらず、宗社(宗廟と社稷)を危うくするものであった。叛臣と賊子(親不孝な子)は、理屈上おなじように憎むべきものである。あなたは早々に処置するのが良い」
こうして李植の身柄を李遠に渡した。李遠は平素から李植を愛していて、李植も叛逆計画と無縁であると言った。李遠は李植を信じ、明朝に李植と連れだって宇文護に謁見しようとした。宇文護は「李植は既に死んでいる」と言ったが(李遠が来たのは李植誅殺の報告だと思っていた)、左右(側近)は「李植もまた門に居る」と報告した。宇文護は大怒して言った「陽平公(李遠)は私を信じないというのか」
こうして召し入れ、李遠にも同席するよう命じると、略陽公(宇文覚)と李植に対し李遠の前で質問しあうよう仕向けた。李植は言葉に窮し、宇文覚に言った「本来、この謀をなしたのは、社稷を安んじ、至尊(天子だった宇文覚)の利益となるよう望んだからである。今日ここに至り、云々することはない」
李遠はこれを聞くと、自身を寝台に置いて言った「もしそうであるなら、まこと万死に値する」
こうして宇文護は李植を殺害し、李遠には自殺させた。李植の弟である李叔詣・李叔謙・李叔讓もまた死んだ。残りの子は幼いため死を免れた。かつて李遠の弟である開府儀同三司の李穆は、李植は主として家を保つことができないと、しばしば李遠に李植を除くよう勧めていたが、李遠はこの助言を用いることができなかった。李遠は刑死に臨むと泣いて李穆に言った「私があなたの言葉を用いなかったためにこうなってしまった」
李穆は連座に相当したが、これまでの発言から死を免れ、除名されて民となり、その子弟もまた免官された。李植の弟で淅州刺史の李基は、義帰公主(宇文泰の娘)を妻としていた。彼もまた連座に相当したが、李穆は自身の2子を身代わりに李基の助命を請い、宇文護はいずれも許した。
1月あまりの後、宇文護は宇文覚を弑し(享年は数えで16)、王后の元氏は降格され尼となった。
寧都公(宇文毓)は岐州(陝西省宝鶏市一帯、古国周の発祥の地)より長安に至り、天王に即位した。大赦した。

10月、南朝で梁から陳への禅譲が行われた。
周王(宇文毓)は円丘で祀りを行い、翌日に方丘で祀りを行い、その3日後に太社で祭を行った。

11月、周王は太廟を享け、後日円丘で祀りを行った

12月、周王は成陵に謁し、長安宮へ還った。
譙淹(555年、南朝梁と連絡を取って西魏に叛いた)が水軍7千、老弱な兵3万を率いて、蜀から長江を東に下り、王琳(南朝梁の重鎮であり、長江中流域で南朝陳に抵抗していた)に合流しようとした。周は開府儀同三司の賀若敦・叱羅暉らにこれを攻撃させ、譙淹を斬り、その兵を悉く捕虜とした。
かつて、梁の興州(湖北省丹江口市一帯)刺史だった席固は州ごと西魏に降り、宇文泰は席固を豊州(興州を改称)刺史にした。長い間、梁の法に則り、北方の制度に従わなかった。周の人は密かに席固を代えたがっていたが、適任者を得られずにいた。そこで司憲中大夫の令狐整に豊州をかりに鎮守させ、席固に代えて委ねる計略を取った。令狐整の統治・教化は良好であったため、令狐整を正式に豊州刺史とし、席固は湖州刺史とした。席固が異動する際、その私兵は令狐整の左右となることを願ったが、令狐整は周朝の法制度を理由に諭し、許さなかった。去る者はみな涙した。

558年
1月、周は晋公の宇文護を太師とした。
周王は藉田を耕した(勧農と豊饒を祈願するための農耕儀礼)。
周は独狐氏(独狐信の娘)を王后に立てた。

2月、斉の北豫州刺史である司馬消難は、斉主(高洋、北斉の文宣帝)が昏迷かつ暴虐なので、ひそかに身の安全を計り、意を曲げて部下を安撫していた。消難の妻は高歓の娘だったが、不仲で、公主は彼を訴えていた。上党王の高渙が亡びた(557年12月)ので、鄴(河北省邯鄲市臨漳県と河南省安陽市安陽県にまたがる地域、北斉の首都)中は大いに騒がしく、消難が成皋(河南省鄭州市滎陽市、別称の虎牢が有名)に赴く(北豫州での自立or州をあげて周に帰属)ことを疑っていた。消難の従弟の子である司馬端は尚書左丞となったが、御史中丞の畢義雲と不仲だった。畢義雲は御史の張子階を北豫州に遣わして風評を得ると、先んじて消難が属官や家客と連絡することを禁じた。消難は恐れ、ひそかに親しい中兵参軍の裴藻に私用での休暇を託すと、間道を通って関に入り、周に降ることを請うた。

3月、周は柱国の達奚武と大将軍の楊忠(楊堅の父)に騎兵5千を授けると消難の迎えに寄越した。間道に従って斉の国境に500里侵入し、前後3回消難に報せを出したが、返報は無かった。虎牢から30里ほどの距離で、達奚武は変事を疑って帰ろうとしたが、楊忠は言った「進んで死ぬべきであり、退いて生きるべきではない」
独りで千騎を率い虎牢城下に赴いた。城は四面の壁がそそり立ち、見回りが拍子木を打つ音が聞こえるのみだった。達奚武は自ら城の様子を見に来たが、数百騎を率いて西へ去った。楊忠は残った騎兵を率いて動かず、しばらくすると開門したため入城し、馬を飛ばして達奚武を召した。斉の鎮城である伏敬遠は兵2千を率いて虎牢の東にある城に篭り、烽火を挙げて厳重に警戒した。達奚武はこれを憚り、虎牢城の保持を諦め、財物を多く取って消難と消難に付き従う者を先に帰らせ、楊忠に三千騎を与えてしんがりとした。洛水(陝西省にある華山から河南省に入って洛陽の南を通り黄河に注ぐ川)の南に到着し、周軍はみな鞍を解いて寝ていた。斉軍が追いかけてきて、洛水の北に到着した。楊忠は将士に言った「ただ飽食せよ。今死地にあるが、賊があえて水を渡ることは決してない」
はたしてその通りとなり、斉軍はおもむろに引き返した。達奚武はため息をついて言った「達奚武は天下の武芸者を自称していたが、今日は楊忠に後れをとった」
周は消難を小司徒とした。

4月、周は太師の宇文護を雍州牧とした。
周の王后である独狐氏が死んだ。

5月、周は大司空の侯莫陳崇を大宗伯とした。

8月、周は大赦した。

9月、周は少師の元羅を韓国公とし、魏の後を継がせた。
周王は同州に行った。

10月、周王は長安に帰った。

12月、周は大赦した。

559年
1月、周の太師である宇文護が上表して政を帰し、周王が初めて自ら万機をみた。軍事のことは依然宇文護が統べた。はじめて都督州軍事を改めて総管とした。

2月、斉の斛律光(北斉の名将)が騎兵1万を率いて周の開府儀同三司である曹回公を攻撃し、これを斬った。柏谷(現在地を同定できず)城主の薛禹生は城を棄てて逃げ、ついに文侯鎮(現在地を同定できず)を取った。戍(守備兵の陣営)を立て、柵を置いて帰った。

3月、吐谷渾が周の国境地帯に侵攻し、周は大司馬の賀蘭祥を派遣してこれを攻撃した。

閏4月、周は官吏に命じて新暦を改定した。
周は侯莫陳崇を大司徒とし、達奚武を大宗伯とし、武陽公の豆盧寧を大司寇とし、柱国で輔城公の宇文邕(のちの武帝)を大司空とした。
周は詔した「役人は過去のことで取り調べすることはできない。ただ、馬小屋・倉庫と国内の公共物について、盗みを行えば、罪は赦免されるが、法に基づいて弁償するものとする」
周の賀蘭祥は吐谷渾と戦い、これを破った。洮陽・洪和(ともに甘粛省甘南チベット族自治州付近のエリア)の2城を抜き、その地は洮州となった。

6月、周は長雨のため、群臣に詔し、口を極めて諫言した封書を提出させた。左光禄大夫で猗氏県(山西省運城市臨猗県)出身の楽遜は4つの事柄を上言した。
その1におもえらく「このごろ守令(郡太守と県令)の交代時期が既に迫っているが、その成果を責め、もっぱら強圧的である。いま関東(函谷関より東、斉の領域)の民は塗炭(泥にまみれ火に焼かれるような苦しい境遇)の中に水没している。もし政を布くのに和やかでなければ、国外に我が国の様子が伝えられ、彼の地にある労民が楽土に帰りつこうとするだろうか」
その2におもえらく「かつて魏の都は洛陽で、一時は繫栄し、勢いのある家は奢侈を競い、ついに世の乱れ・騒動が頻発し、天下は敗亡した。このごろ朝廷貴族の調度・衣服は次第に華やかになっており、工匠たちは奇巧をこらして造作している。嗜好が次第に移り変わって政や良俗を損なうことを、私は本当に恐れている」
その3におもえらく「選曹補擬(属官の補選)では、人々と共にこれを行うのが良い。いま州郡の選置でもなお郷里での集会がある。まして天下の選考であればなおさら衆望を考慮すべきである。国家の機密事項として内密に行うべきではない(選曹補擬での密奏は西晋の山濤を起源とするという)。その選置の日には、衆心を明白にさせ、そのあとで上奏させるのがよい」
その4におもえらく「高洋(北斉の文宣帝)は山東に割拠し、速やかに制することは難しい。例えるなら棋劫(囲碁のコウ、同じ形で取ったり取られたりを繰り返す)を相持ち、先後を争うようなものである。もし一つでも不当な行いがあれば、あるいは彼の利となる。小を捨て大を営むのだ。まず領内の保全を行い、国境で利を貪り軽挙妄動するのは良くない」
周の処士(在野の人)である韋夐は韋孝寛(西魏・北周の名将)の兄だったが、志は平易かつ無欲で、魏・周の頃に10回徴集されたが応じなかった。周太祖(宇文泰)は甚だこれを重んじ、その志を奪わなかった。世宗(宇文毓)もまた彼を厚く敬礼し、「逍遥公」と号した。宇文護は彼を家に招き、政事を尋ねた。宇文護は盛んに家屋の修築を行っており、韋夐は堂を仰ぎ見ると嘆じて言った「酣酒嗜音,峻宇雕牆,有一於此,未或不亡」(尚書・夏書・五子之歌から引用:酒はたけなわで音楽をたしなみ、軒は高く垣に美しい文様が彫られている、これら一切がここに集まっているが、今までにそれらが亡びなかったことはない、といった意)
宇文護は不快になった。
周の驃騎将軍・開府儀同三司である寇儁は、寇讚(前秦から北魏にかけての官僚)の孫で、若いころから学業を行った。家人は常々物を商い、多い時は絹5匹を得ていた。寇儁は後でこれを知ると言った「財を得て行いを失うのは、私の取るべき所業ではない」
主を訪れてこれを還した。宗族と情に厚く親しみ、盛衰を同じくし、子孫に教訓し、必ず礼と義を優先した。大統(535-551年)中より、老病と称して朝廷に謁せず。世宗(宇文毓)は虚心で彼に会うことを願い、寇儁やむを得ず入見した。王(宇文毓)はこれを引いて同席に座らせ、魏朝の旧時を問うた。載せるのに御輿を用い、王の目の前でこれに乗らせて退出させた。左右を顧みて言った「このような事は、ただ善を積む者にしか許可しない」
南朝陳の陳覇先が死に、甥の陳蒨が即位した。

8月、周の御正中大夫である崔猷が建議しておもえらく「聖人の沿革(変遷)は、時と場合に応じる。いま天子が王を称しては、天下を威するに足りない。秦・漢の旧制に従って皇帝を称し、年号を建てることを請う」
周王は皇帝を称し、文王(宇文泰)を文皇帝と追尊し、武成に改元した。
かつて周太祖(宇文泰)が蜀を平定し(553年)、形勝の地(敵を防ぐのに都合のよい地勢)であるため宿将がこの地に居ることを欲さなかった。宇文泰は諸子に問うた「行くべき者は誰か」
みな応えず。年少の息子である安成公の宇文憲が行くことを請うたが、幼少であるため宇文泰は許可しなかった。この時、周の人は宇文憲を益州総管とした、当時数え16歳。安撫を善く行い、政治のすべに心を配り、蜀の人は彼の統治を悦んだ。

9月、大将軍で天水公の宇文広を梁州総管とした。宇文広は宇文導(宇文泰の兄である宇文顥の子、弟の宇文護と共に親戚として宇文泰を支えたが554年に死んだ)の子である。
周主(宇文毓)は弟で輔城公の宇文邕(のちの北周武帝)を魯公とし、安成公の宇文憲を斉公とし、宇文純を陳公とし、宇文盛を越公とし、宇文達を代公とし、宇文通を冀公とし、宇文逌を滕公とした。

10月、北斉の高洋が死に、息子の高殷が即位した。

560年
2月、王琳が南朝陳と対峙した隙に乗じて、周は都督荊・襄等五十二州諸軍事、荊州刺史の史寧に将兵数万を与えて派遣し郢州(湖北省東部一帯)の王琳軍を襲った。王琳軍の守将である孫瑒が城を守った。
王琳は斉の救援を受けながら戦ったが、陳に大敗し、斉へ亡命した。
江陵(湖北省荊州市)が陥落した時(554年)、長城(陳覇先はかつて長城公だった)の世子である陳昌および中書侍郎の陳頊(陳蒨の弟で、のちの宣帝)はみな長安(西魏・北周)に捕らわれた。高祖(陳覇先)は即位し、しばしば周に彼らの身柄を請うたが、周の人は派遣を許さなかった。高祖が死に、周の人は陳昌を送り返そうとしたが、王琳の難があり、安陸(湖北省孝感市安陸市)に止まっていた。王琳が敗れたため、陳昌は安陸を発した。まさに長江を渡ろうとし、皇帝の陳蒨に書を送ったが、言辞は甚だ不遜だった。陳蒨は不快になり、侯安都を召して従容として言った「太子がまさに至ろうとしている。私は別に一藩を設けて故郷で老後を過ごそうと思う」
侯安都は言った「古よりとって代わられた天子などいない。愚かなる私は詔を奉じることはできない」
こうして侯安都自身が陳昌を迎えにいくよう請うた。群臣は上表して陳昌に爵命を加えるよう請い、陳昌は驃騎将軍・湘州牧となり、衡陽王に封じられた。

3月、周軍が郢州に到着した当初、郢州助防の張世貴が外城を挙げてこれに応じ、軍民3千余口を失った。周軍は土山・長梯を作り、昼夜攻めた。風に乗じて火を放ち、内城の南面の50余楼が焼けた。孫瑒の兵は千人に満たなかったが、自身で城を安撫し、酒食を振る舞い、士卒はみな彼のために死戦した。周軍は勝てなかったため、孫瑒に柱国・郢州刺史を授け、萬戸郡公へ封じた。孫瑒は偽ってこれを許可して周の攻勢を緩め、ひそかに守戦の備えを修繕し、ひと朝で具わったため、また守り拒んだ。既に周軍は王琳の敗北を聞き、陳の兵がまさに到着しつつあったため、囲みを解いて去った。孫瑒は将佐(将官と佐官、高級武官)を集めて言った「私と王公(王琳)は同じく梁室を助け、勤めは十分に行ってきた。いま時事がこのようになったのは、天命というしかない」
こうして遣使し表を奉じ、長江中流の地を挙げて陳に来降した。
陳昌が長江を渡る途中、舟が沈んで溺死した。侯安都の爵位が清遠公に進んだ。
かつて、高祖(陳覇先)は滎陽(河南省鄭州市滎陽市)の毛喜に安成王の陳頊を添えて江陵に派遣し、梁世祖(元帝の蕭繹)は毛喜を侍郎とした。毛喜は長安に捕らえられたが、陳昌とともに帰り、和親の策を進めた。陳蒨は侍中の周弘正に周と通好させた。

4月、周世宗(宇文毓)は明敏で見識と度量を備え、宇文護はこれをはばかった。宇文護は膳部中大夫の李安を介して糖団子に毒を置き、これを宇文毓に進めた。宇文毓は毒を盛られたことに気付いた。大漸(危篤)となり、遺詔500余言を口授し、かつ言った「朕の子は幼年で、まだ国事に当たることはできない。魯公(宇文邕)は朕の介弟(介=大、年長の弟といったところか)で、寛仁で度量が大きい様子を、海内(国内)はみな聞いている。わが周家を大きくするのは必ずこの子である」
宇文毓は死んだ(享年27)。
宇文邕は幼い頃から立派な素質があったため、宇文毓は特にこれを親愛し、朝廷の大事の多くに宇文邕と参議した。性格が落ち着いて、遠大な見識を有し、相談されなければ決してすぐに言葉を発しなかった。宇文毓は常々嘆じて言った「夫人不言、言必有中」(論語・先進第十一、孔子が門人の閔子騫を評した言葉の引用:かの人は言わないが言えば必ずあたるあり)
宇文邕は皇帝に即位した。大赦した。

8月、北斉で高殷が廃位され、叔父の高演が即位した。
周の軍司馬である賀若敦が兵1万を率いて武陵(湖南省北部・湖北省南部・貴州省東部・重慶市東南部・広西チワン族自治区北東部にまたがる地域)を急襲した。陳の武州刺史である呉明徹は防ぐことができず、軍を巴陵(湖南省岳陽市一帯)に軍を引き返した。
江陵が陥落した際、巴(重慶市と四川省にまたがる地域)・湘(湖南省一帯)の地はみな周に編入され、周は梁の人にこれを守らせていた。陳の太尉である侯瑱らが兵を率いて湘州に迫った。賀若敦は歩兵騎兵を率いて湘州の救援にあたり、勝ちに乗じて深入りし、周軍は湘川(洞庭湖に注ぐ長江右岸の支流)に居た。

9月、周の将である独孤盛が水軍を率いて賀若敦とともに進み、陳は儀同三司の徐度に兵を授けて派遣し巴丘(湖南省岳陽市)で侯瑱と合流させた。ちょうど秋で水かさが増し、独孤盛・賀若敦は補給路を断たれた。彼らは軍を分けて略奪し、軍資にあてた。賀若敦は侯瑱が周軍の食糧不足に気付くことを恐れ、軍営内に土聚(土を集めてできた建材か)を多量に置き、その表面を米で覆うと、近隣の村人を召した。偽って訪問する者(陳のスパイか)が居たが、村人を従えて送った。侯瑱は周軍に食糧が豊富な様子を聞き、これを事実とした。賀若敦はまた軍営・堡塁の増築・修繕を行い、廬舎(仮の小屋)を造り久しく留まるための計をなした。湘・羅(湖南省岳陽市湘陰県)の間ではついに農業が廃れたが、侯瑱らはどうすることもできなかった。
これより前、現地人は軽船にのり、食糧を載せて侯瑱軍に送ることがしばしばあった。賀若敦はこれを患ったので、偽って現地人の船を装い、中に武装兵を伏せた。侯瑱軍はこれを見て食糧運搬船が来たと言い、迎えに来て争うように取ろうとした、賀若敦の武装兵は出現して彼らを捕らえた。また賀若敦軍に叛いて乗馬したまま侯瑱に投降する人がしばしば現れた。賀若敦は別に一馬を取り、引いて船に向かわせ、船中に迎えるとこれを鞭で打たせた。これが再三行われ、馬は恐れて船に上がらなくなった。その後に長江の岸に兵を伏せ、舟を怖がる馬に人を乗せて侯瑱軍を招き、偽って投降させた。侯瑱は迎えの兵を派遣し、競うように群がって馬を牽いたが、馬は船を怖がって上がらなかった。伏兵が現れ、迎えの兵をことごとく殺した。こののち、実際に食糧を補給しようとしたり投降しようとする者が現れても、侯瑱は詐計とみなし、これを攻撃した。

10月、侯瑱は独孤盛を楊葉洲(湘江のどこかにあったようだ:湘江=洞庭湖に注ぐ長江右岸の支流)で襲って破った。独孤盛は兵を収めて岸に登り、築城して勢力を保った。詔で陳の司空である侯安都が兵を率い、南部戦線の侯瑱に合流した。

11月、北斉の高演が盧叔虎に時務を問うたところ、盧叔虎は周の征伐を請うて言った「我は強く彼は弱い、我は富み彼は貧しい、その勢いは隔たっている。にもかかわらず戦争は終わらず、いまだ併呑できない。この失敗は我が国の強と富を活用できていないことによる。軽兵で野戦しては勝負が難しくなる、これは胡騎の法であって万全の術ではない。重鎮を平陽(山西省臨汾市堯都区)に立てて、かの国の蒲州(山西省運城市一帯、蒲坂と呼ばれることが多い)と相対し、溝を深くし塁を高くし、食糧を運んで武具を積むのだ。彼らが関を閉じて出なければ、すこしずつ河東の地(山西省南部)を蚕食し、日ごとに彼らは困窮する。もし彼らが兵を出したとしても10万未満なら我らの敵ではない。所損糧食咸出関中(2通りの解釈:①周で食糧の消耗が著しく、ことごとく渭水盆地から運び出される、②周が食糧を消耗したところで、斉は一挙に渭水盆地へ進出する)。わが軍の兵は1年に1度交代し、食糧も豊富である。彼らが来て戦を求めても我らは応じない。彼らがもし去れば、我らはその弊害に乗じる。長安より西だと、民は疎らで城は遠く、敵兵の往来は難しくなる。我らと対峙すれば農業は廃れ、3年以内に彼らは自滅するだろう」
高演はこの策をとても善いと考えた。

12月、周の巴陵城主である尉遅憲が陳に降り、陳は巴州刺史の侯安鼎を巴陵の守備に派遣した。独孤盛は残兵を率いて楊葉洲から密かに逃れた(賀若敦はますます孤立)。

561年
1月、周は保定に改元した。大冢宰の宇文護は都督中外諸軍事となった。五府(地官・春官・夏官・秋官・冬官の府:いずれも周礼にみられ、あとの天官とあわせて六官と呼ばれる)を天官(長は大冢宰の宇文護)に総べさせ、事案の大小に関わらず決定した後で報告した。
宇文邕は円丘で祀りを行い、翌日方丘で祀りを行った。3日後に南郊で感生帝(姜嫄が巨人の足跡を踏んで周の始祖である后稷を懐妊したこと)を祀り、その翌日に太社で祭りを行った。
宇文邕は太廟を享け、宇文泰の提唱した六官の法(周礼にある天官・地官・春官・夏官・秋官・冬官)に従って分班した。
周の湘州刺史である殷亮が降伏し、陳は湘州を平定した。
侯瑱と賀若敦は久しく対峙し、侯瑱は制することができなかったため、船を借りて賀若敦らを長江経由で送り帰そうとした。賀若敦は詐計を疑って、許可しなかったため、報せて言った「湘州はわが地であり、汝らが侵攻し迫った。我々はこの後帰るので、我々から100里外れたところまで去るのがよい」
侯瑱は長江沿岸に船を留めたまま、兵を引いて去った。こうして賀若敦は北に帰ったが、軍士で病死するものが10人中5,6人出た。武陵・天門・南平・義陽・河東・宜都郡はことごとく陳が平定した。宇文護は賀若敦が功無く失地したため、除名して平民とした。

2月、宇文邕は東郊で朝日を見た。
周の人は小司徒の韋孝寛がかつて玉壁(山西省運城市稷山県)で勲功を立てた(546年の玉壁の戦い)ため、玉壁に勳州を置いて、韋孝寛を刺史とした。韋孝寛は恩徳と信義があり、間諜(スパイ)を善く用いた。ある斉の人が韋孝寛から金貨を受けとって手紙を交わしており、斉の動静について周の人はみな前もって知っていた。軍団長の許盆という者がおり、守城もろとも斉に降ろうとしたが、韋孝寛は諜者を派遣してこれを制すると、にわかに斬首して帰った。離石(山西省呂梁市離石区付近)以南で稽胡(華北北部に存在した騎馬遊牧民族)による略奪がしばしば行われたが、斉との国境近くに居るため討伐できなかった。韋孝寛は要害の地に築城して稽胡を制そうとし、河西(黄河龍門の西側か)で役丁10万と武装兵100を徴発すると、開府儀同三司の姚岳を遣わして築城を監督させた。姚岳は兵が少ないことからあえて前進しなかったため、韋孝寛は言った「この城の建築計画は10日で終えられる。城は晋州(山西省臨汾市一帯)から400余里隔たっている。我々が1日造りはじめ、2日で敵境が初めて知る。晋州で徴兵が行われ、3日で参集する。謀議の間、自ずと留まること2日。斉の行軍を考えるに2日では到着しない。我々の城と空堀を造営するのに十分な時間がある」
こうして築城を命じた。斉軍ははたして国境に到着したが、大軍があることを疑い、留まって進まず。その夜、韋孝寛は汾水(太原盆地から黄河に注ぐ支流)以南で介山・稷山周囲の諸村に火を放たせた。斉はこれを軍営と考え、兵を収めて守りを固めた。姚岳は城の建造を終えて帰った。

3月、侯瑱が死んだ。
周は八丁兵(成人男性を8グループに分類して交代で役につける)を改めて十二丁兵(12グループに分類して月単位で役に付ける)とし、卒歳一月而役(1月の一斉交代を止めたと解釈したが、卒歳に一年中という意味があることもあり自信がない)

4月、周は少傅の尉遅綱を大司空とした。
周は宇文覚の子である宇文康を紀国公に、皇子の宇文贇(のちの宣帝)を魯公に封じた。宇文贇は李后(南朝梁の江陵に居た者で、李淵らとは無関係)の子である。

6月、周は御正の殷不害(南朝梁の旧臣で江陵攻略に伴い長安に居た)を陳に派遣した。

7月、周は新たに銭を鋳て、文は「布泉」、1枚で五銖銭5枚相当で、五銖銭と並行した。
周は皇伯父の宇文顥(宇文護の父)を邵国公と追封し、宇文護の子である宇文会を跡継ぎとした。宇文顥の弟である宇文連を杞国公とし、章武公宇文導の子である宇文亮を跡継ぎとした。宇文連の弟である宇文洛生を莒国公とし、宇文護の子である宇文至を跡継ぎとした。宇文泰の子である武邑公の宇文震を宋公に追封し、宇文毓の子である宇文実を跡継ぎとした(宇文氏は六鎮の乱やその後の乱世で多くの親族を失っている)。

11月、斉で高演が死に、高湛が即位した。
周の人は安成王の陳頊が帰るのを許すと、司会上士の杜杲を使節として派遣しこれを伝えた。陳蒨は悦び、即遣使して返報すると、黔中(湖南省西部と貴州省東部にまたがる地域)と魯山郡(湖北省武漢市漢陽区)を贈った。
宇文邕は岐陽で耕した(周発祥の地で農耕行事)。

12月、宇文邕は長安に還った。

562年
1月、周の涼国公である賀蘭祥が死んだ、諡号は景。
周の人は蒲州で河渠をうがち、同州で龍首渠をうがった(北斉と対峙する2要所で灌漑事業)。
周は安成王の陳頊を柱国大将軍とすると、杜杲を派遣して彼を南へ送り帰した。

2月、後梁の蕭詧が死に、息子の蕭巋が即位した。

3月、安成王の陳頊が建康に到着した。詔で中書監・中衛将軍となった。
陳蒨は杜杲に言った「家弟(陳頊は陳蒨の弟)はいま礼遣をこうむり、実に周朝の恵みである。しかし、魯山を返していなければ、おそらくこのようにはなっていなかっただろう」
杜杲は答えて言った「安成(陳頊)は長安の一平民だが、陳の大弟である。その価値が一城に止まるはずがない。本朝(周)では九族(高祖父母から玄孫まで9世代の親族)が情に厚く親しみ、自分に対する寛容さを他人まで拡げ、上は太祖(宇文泰)の遺言を遵守し、下は友好関係を継続する義を思い、こうして今回の南帰となった。いま尋常の土地を骨肉の親と取り替えるという話をしたが、臣はあえて聞かなかったことにする」
陳蒨たいそう恥じて言った「前言はただの戯れだった」
杜杲を一層礼遇するようになった。
陳頊の妃である柳氏および子の陳叔宝(のちの後主)はなお穰城(河南省南陽市鄧州市)に居り、陳蒨はまた毛喜を周に遣わして身柄を請うた。周の人はこれらをみな帰した。

4月、これ以前に周の君臣で封爵を受けた者はみな租賦未給(貢租と賦税を中央に供給しないと解釈したものの、自信がない)であった。詔ではじめて柱国等の貴臣の邑戸に他県に身を寄せることを許可した。

5月、周で大赦が行われた。
周は柱国の楊忠を大司空とした。

6月、周は柱国で蜀国公の尉遅迥(蜀を征服した名将で、後に楊堅の簒奪を阻止するため挙兵した、母親が宇文泰の姉)を大司馬とした。

11月、周は趙国公の宇文招(宇文泰の息子)を益州総管とした。

563年
1月、周の梁公(諡号は躁)である侯莫陳崇は宇文邕に従って原州(寧夏回族自治区固原市あるいは甘粛省鎮原県一帯)に行った。帝は夜長安に還り、人々はその理由を怪しんだ。侯莫陳崇は親しい人に言った「私がこのごろ術者の言を聞くと、晋公(宇文護)は今年不利と。車駕(天子の御車)はたちまち夜に還った。晋公の死に勝ることはない」
ある時その事が発覚した。
帝は諸公を大徳殿に召集して侯莫陳崇を面責(面と向かって責める)し、侯莫陳崇は恐れおののいて謝罪した。その夜、冢宰の宇文護は将兵を侯莫陳崇の家に派遣し、迫って自殺させた。葬儀は常の作法で行われた。
宇文邕は司憲大夫の拓跋迪(拓跋晃の玄孫で北魏から北周を生きた)に命じて「大律」15篇を造らせた。

2月、大律が頒布・施行された。その罪を制する法として、1は杖刑で10回から50回まで、2は鞭刑で60回から100回まで、3は徒刑で1年から5年まで、4は流刑で2500里から4500里まで、5は死刑で磬(詳細不明)・絞・斬・梟(首を木に懸ける)・裂(車裂き)、およそ25等(5種類の刑、それぞれ5段階)である。
周は詔した「大冢宰の晋国公は、親族としては立派な兄で、任務は輔政の元首にあたる。今より詔書と百官の文書に、公の名(護)を掲載しないものとする(諱を避けるのは歴代皇帝待遇)」
宇文護は上表して固辞した。

4月、周は柱国の達奚武を太保とした。
宇文邕はまさに学を視ようとし、太傅で燕国公の于謹を三老とした。于謹は上表して固辞したが、宇文邕は許さず、なお延年杖(皇帝が老臣に対し優遇の印として贈った杖)を賜った。宇文邕は太学に行幸した。于謹が門に入ると、宇文邕は門屛の間に迎えて拝し、于謹は答えて拝した。役人は三老の席を中楹(家屋の中央といった意か)に設けて、南を向かせた。太師宇文護は階を昇り、机を設けた。于謹は席に昇り、南面して机につき座った。大司馬の豆盧寧は階を昇り、舃(貴族が履いていた礼服靴)を正した。帝は階を昇り、斧扆(古代の屛風様のもの)の前に立ち、西面した。役人が食事を供え、帝はひざまずいて醬(調味料)と豆(養老の意を表す)を設け、自ら于謹のために生け贄を割いた。于謹の食事が終わると、帝は自らひざまずいて酳(口をすすぐための酒)の酌をした。役人が片付け終わると、帝は北面し立ったまま道を尋ねた。于謹は席を後ろに立ち上がり答えて言った「木受繩則正,后從諫則聖(尚書・説命上からの引用:木は縄に従えばすなわち正しく、きみは諫めに従えばすなわち聖なり)。明王(宇文邕)は虚心にして諫めを容れもって得失を知れば、天下はすなわち安し」
また言った「去食去兵,信不可去(論語・顔淵第十二・子貢問政を踏まえた内容:軍備をすて、食糧をすてても、信頼なくして国は立たない)。陛下が信を守り、失うことがないよう願う」
また言った「功があれば必ず賞し、罪があれば必ず罰する。すなわち善をなす者は日々進み、悪をなす者は日々止む」
また言った「言葉と行動は身を立てる基である。願わくは陛下、3回思ってから言い、9回慮ってから行い、過ちを無からしめたまえ。天子の過ちは、日月の食のように、人々はみな知るところとなる。願わくは陛下、これを慎みたまえ」
帝は言葉を受けて再び拝し、于謹は答えて拝した。礼が成ってから出た。

7月、宇文邕は原州に行幸した。

9月、宇文邕は原州から隴(甘粛省南東部の地、隴という字には丘という意味もある)に登った。
宇文邕は同州に行った。
かつて、周の人は突厥の木杆可汗と兵を連ねて斉の討伐を欲し、木杆可汗の娘を后に納めることを認め、御伯大夫の楊荐と左武伯で太原出身の王慶を遣わし、婚約を結んだ。斉の人はこれを聞いて恐れ、また遣使して突厥に求婚し、甚だ厚い賄賂を贈った。木杆は斉からの贈り物を多く受け取ったため、楊荐らを捕らえて斉に送ろうとした。楊荐はこれを知り、木杆を責めて言った「太祖(宇文泰)は昔、可汗とともに隣国として厚く友好し、柔然部落が数千来降した(突厥は柔然を追い落として北方の盟主となった)が、太祖は悉くこれを可汗の使者に引き渡し、可汗の意に快く応じた。今日になって急に恩に背き義を忘れようとしているのはどういうことか。ひとり鬼神(宇文泰の霊と解釈しても良いか)に恥じないのか」
木杆はややしばらく哀しみ嘆いて言った「君の言う通りだ。わが意は決した。あい当たって共に東の賊(北斉)を平らげ、しかる後に娘を送ろう」
楊荐らは復命(業務の経過や結果を報告すること)した。
周の公卿は斉を撃つため10万人の徴発を要請したが、柱国の楊忠は騎兵1万で足りると独り考えた。楊忠に歩騎1万を率いさせ、突厥と北道(オルドス方面からの侵攻か)より斉を伐った。大将軍の達奚武に歩騎3万を率いさせ、南道(河東方面からの侵攻か)より平陽に出て、晋陽(山西省太原市)での両軍合流を期した。

12月、宇文邕は長安に還った。
楊忠は斉の20余城を抜いた。斉の人は陘嶺の隘路(雁門関か)で守ったが、楊忠はこれを撃破した。突厥の木杆・地頭・步離の3可汗(木杆は突厥を3部に分け、地頭は東方、歩離は西方を統べていた)は10万騎でこれに合流し、恒州(河北省石家荘市一帯、もしくは山西省北部・内モンゴル自治区ウランチャブ市南部一帯、候補は2つあるが後者が有力か)の3道よりともに入った。当時大雪が数十日続き、南北千余里に渡って、平地に数尺降り積もっていた。高湛は鄴より倍道してこれに赴き、晋陽に到着した。斛律光は歩兵3万を率いて平陽に駐屯した。周軍と突厥は晋陽に迫った。高湛は敵の強さを恐れ、軍服で宮人を連れて東に逃げてこれを避けようとした。趙郡王の高叡・河間王の高孝琬が馬を叩いて諫めた。高孝琬は高叡に軍を委ねるよう請い、そうすれば必ず厳整を得られるとした。高湛はこれに従って、六軍に命じて進退はみな高叡の節度(指図)に従うようにし、一方で并州刺史の段韶(北斉の名将、母の婁信相は高歓の正妻である婁昭君の姉)にこれを統べさせた。

564年
1月、高湛は晋陽北城に登り、軍容ははなはだ整っていた。突厥は周の人を咎めて言った「お前が斉は乱れているといったから、彼らを伐ちに来たのだ。いま斉の人の眼中には鉄のようにかたく強い意志がある。どうして当たることができようか」
周の人は歩兵を前鋒とし、西山(晋陽の西にある山:常一民 「晋陽古城における近年の調査成果」)に沿って下り、城から2里ほど離れたところに居た。斉の諸将はみなこれを迎撃するよう欲したが、段韶は言った「歩兵の力勢には自ずと限界がある。いま積雪は既に厚く、迎撃に不便である。戦列を整えて彼らを待つのが良い。彼らが労苦し我らが安逸なら、必ず彼らを破ることができる」
ついに周軍が到着し、斉は精兵を挙げて太鼓・ときの声を鳴らしながら出撃した。突厥は恐れて震えあがり、西山に引き上げて戦おうとしなかった。周軍は大敗して還った。突厥は兵を引いて塞を出て、兵を放って大いに掠奪が行われ、晋陽より往くこと700余里で人畜が遺らなかった。段韶はこれを追ったが、あえて迫らなかった。突厥は陘嶺まで還ったが、凍って滑ったのでフェルトを敷いて渡った。胡の馬は寒さで痩せ、膝以下は無毛となった。長城(高洋が突厥に備えて築いたもの)に至るころ、馬は死んでまさに尽きようとしており、矛を裁って杖にしながら帰った。
達奚武は平陽に到着したが、楊忠の退却をまだ知らなかった。斛律光は書を与えて言った「鴻鵠已翔於寥廓,羅者猶視於沮澤(司馬相如 『難蜀父老』をうけた言葉:大きな鳥はすでに大空を翔けているが、鳥網でとらえる者はまだ沢の方を見ている)」
達奚武は書を得てまた還った。斛律光はこれを追って周境に入り、2千余口を獲て還った。
斛律光は晋陽で高湛に会った。高湛は新たな大寇に遭ったことから、斛律光の頭を抱えて泣いた。任城王の高湝は進んで言った「どうしてこのようなことになったのか」
こうして止めた。
かつて、高洋の時代、周の人は常に斉兵が黄河を西に渡ることを恐れており、冬に至るごとに黄河の氷を砕いて守っていた。高湛が即位すると君主の寵愛を受けた者達が支配し、朝政は次第に乱れ、斉の人は黄河の氷を砕いて迫る周兵に備えた。斛律光はこの状況を憂えて言った「国家(北斉)は常に関隴(北周)を呑む志を持っていたが、今日ここにいたり、言葉をもてあそぶだけになっている」

3月、周は初めて百官に笏(正装時に手で持つ細長い板)を執らせた。

4月、宇文邕は陳に遣使した。
周は鄧公で河南出身の竇熾を大宗伯にした。

5月、周は宇文毓の子である宇文賢を畢公に封じた。
周は太保の達奚武を同州刺史とした。

6月、周は御伯(皇帝の出入りに侍従する官、天官に属する)を改め納言とした。
かつて、宇文泰が賀抜岳に従って関中に居た頃、人を遣って宇文護を晋陽に迎えた。宇文護の母である閻氏および周主の姑(宇文泰の妹)はみな晋陽に留まり、斉の人は彼女らを中山宮(河北省定州市にあった後燕慕容氏の故宮で、北魏以来の別宮)に配した。宇文護が北周を支配するようになり、斉に間者を入国させて彼女らの身柄を求めたが、消息が分からなかった。斉からの使者が玉壁にきて、互市(対外交易場)を通ずるよう求めた。宇文護は母と姑を訪ね求めようとし、司馬下大夫の尹公正を玉壁に送って斉の使者と交渉し、使者ははなはだ悦んだ。勳州刺史の韋孝寬は関東(斉)の人を捕らえていたが、彼を放ち、手紙を送って西朝(周)が通好を欲しているという意を伝えた。このとき、周の人は前の晋陽攻略が志を得なかったことから、突厥と謀って再び斉を伐とうとしていた。高湛はこれを聞いて大いに恐れ、宇文護の母が西に帰ることを許し、かつ通交を求め、まずその姑を送り帰した。

8月、周は柱国の楊忠を派遣して突厥と合同で斉を伐ち、北河(オルドスループの北側か)に至って還った。
周は斉公の宇文憲を雍州牧とし、宇文貴を大司徒とした。

9月、衛公の宇文直を大司空とした。
追って佐命(君主の補佐)の大功を録し、開府儀同三司で隴西公の李昞(李虎の子、李淵の父)を唐公に封じ(のちの唐はこれより始まる)、太馭中大夫で長樂公の若干鳳(西魏の柱国だった若干恵の子)を徐公に封じた。
突厥が斉の幽州(河北省・遼寧省・北京市・天津市の付近)に侵攻し、兵は10余万、長城に入り、大掠して還った。
周皇姑(宇文泰の妹)が帰るにあたり、高湛は人を遣わして宇文護母に書を作らせた。宇文護幼少時の出来事を幾つか言い、宇文護が着ていた錦袍(錦の上着)を添えて、信証とした。そして言った「私は千載の運に属し、大斉の徳をこうむり、老を敬い恩を開き、あい見ることを許された。鳥獣や草木であっても母子は相依る。私になんの罪があってお前と分離することになったのか。今またなんの福によりお前と再び会えるのか。この悲喜について言おうとすれば、死してもまた蘇る。世の中の全ては求めれば得られるが、母子の国が異なるとき、どこで求めることができようか。かりにお前の高貴さが王公を極め、富が山海を超えるとしても、老母が1人居り、80歳になるが、千里を漂い、いつ死んでもおかしくない。ひと朝もわずかばかり会うことすらできず、1日も同じところにいることができない。寒くてもお前の衣を得られず、餓えてもお前の食を得ることができない。お前が栄を窮め盛を極め、世間に光り耀いたとしても、私になんの益があろうか。今日以前の私に、お前は供養を述べることができなかったが、過去のことを論じても仕方ない。今日以後、私の残りの命は、ただお前にかかっている。戴天履地(人の世を生きていく比喩)、中に鬼神あり、蒙昧といって欺いてはいけない」
宇文護は書を得て、悲しみに勝てなかった。返書して言った「天下は離散し、災禍に遭遇し、膝下から違い離れ、35年になる。生を受け気をうける関係が母子であることは誰もが知っている。薩保(宇文護の字)と同じような不孝者は誰がいるだろうか。子が公侯となったのに母は奴隷となった。暑くても母の暑さを見られず、寒くても母の寒さを見られず、衣食が足りているかどうかも分からない。暗さは天地の外のようで、しばらく消息を知る手段がなかった。この残酷な仕打ちを受けたまま一生を終えても、もし死後に意識があるのなら泉下(死後の世界)でまみえることをこいねがっていた。斉朝が網を解き、磨敦(宇文護ら兄弟は母のことを『阿摩敦』と呼んだ)・四姑(宇文泰の妹)が共に釈放されるという朗報がもたらされるとは思っていなかった。初めてこの旨を聞いたとき、精神がわが身を飛び越え、天に叫び地を叩き、自制することができなかった。斉朝による豪雨のような恩は、既に大地を潤した。家を保ち国を保つには、信義を根本とする。伏して来着の時期をはかり、まさにその日を迎えようとしている。一度慈顏(上の親族、特に父母の顔)を見たてまつることが、永らく生涯の願いだった。死者が蘇り、骨に肉が戻ろうとも、今の恩に勝るものはない。山岳を背負ったとしても、荷が勝つというには足りない」
斉の人は宇文護の母を留め、さらに宇文護へ書を送り、宇文護から重ねて報じることを求めさせ、往復は再三となった。時に段韶は突厥軍を塞下(長城付近)で防いでおり、高湛は黄門の徐世栄を派遣し駅伝で周の文書を送って段韶に諮問した。段韶は言った「周の人は叛服が定まらず、本質的に信義がない。このごろ晋陽の役でそれを知ることができた。宇文護は周の輔政を託され大臣となっているが、周の実質的な主である。既に母のために和を請いながら、一介の使者も派遣していない。もし書面のやりとりだけですぐに母を送れば、我々の弱さを彼らに示すことになると恐れる。母の返還を許可しながら、和親が確定するのを待つべきだ。その後に彼女を遣わしても遅くはない」
高湛はこの助言を聴かず、速やかに彼女を遣わした。
閻氏が周に到着した。朝廷を挙げて慶賀を称し、宇文邕は大赦を行った。閻氏に支給されるものは、華やかで盛んな様子が極まっていた。四季や伏臘(伏=夏に3回行われる祭祀、臘=冬に行われる祭祀:目黒杏子 「前漢前半期の酎祭」)ごとに、宇文邕は諸々の親戚を率いて家人の礼で閻氏のもとへ行き、長寿の酒宴と称した。
突厥が幽州より還ったが、塞北に留屯し、さらに諸部の兵を集めると、周に遣使し、以前約束したように共に斉を撃ちたいと告げた。

閏9月、突厥は斉の幽州に侵攻した。
宇文護は新たに母を得たばかりで、斉の討伐を欲さなかったが、突厥との約に背くと更に辺境の患いとなることを恐れ、やむを得ず24軍(周の軍制は6柱国12大将軍24開府で、各開府の率いる軍が基本的ユニット)および禁軍に属する秦・隴・巴・蜀の兵、あわせて羌・胡(匈奴系異民族)で周に帰服する者を徴発し、およそ20万人になった。

10月、宇文邕は廟庭で宇文護に斧鉞(君主が出征する将軍に統率のしるしとして渡したもの)を授けた。宇文邕は沙苑(陝西省渭南市大茘県の南、かつて宇文泰が高歓に対し奇跡的な勝利を得た地)で自ら軍をねぎらい、長安宮に還った。
宇文護軍は潼関(陝西省渭南市潼関県、古来より東西を分ける要衝)に到着し、柱国の尉遅迥に精兵10万を授けて前鋒として洛陽に向かわせ、大将軍の権景宣に山南(荊・襄の地、つまり長江中流域や漢水流域)の兵を授けて懸瓠(河南省駐馬店市汝南県)に向かわせ、少師の楊檦を軹関(河南省済源市付近、太行八陘のうち最も南にあり山西と洛陽を結ぶ道として重視された)に出撃させた。

11月、宇文護は進んで弘農に駐屯した。尉遅迥は洛陽を囲んだ。雍州牧で斉公の宇文憲、同州刺史の達奚武、涇州総管の王雄は邙山(河南省洛陽市の北、黄河と洛陽を隔てる山で、かつて高歓が宇文泰と激闘の末勝利した地)に軍を置いた。
かつて、周の楊檦は邵州刺史となり、東側国境の守りを務めて20余年、しばしば斉と戦ったが、全てに勝利しており、斉を軽んじていた。すでに軹関へ出たが、単独で兵を率いて深入りしながら、備えを設けなかった。斉の太尉である婁叡(婁昭君の兄の子)は兵を率いて急襲し、楊檦軍を大破した。楊檦はついに斉へ降った。
権景宣は懸瓠を包囲した。

12月、斉の豫州道行台(行台は皇帝の枢機である尚書省の出先機関)・豫州刺史で太原出身の王士良、永州刺史の蕭世怡(梁の皇族、名は泰で宇文泰の諱となるため字で呼ばれる)は共に懸瓠城とともに周へ降った。権景宣は開府の郭彦に豫州(河南省駐馬店市付近)を守らせ、謝徹に永州(河南省信陽市平橋区付近)を守らせ、王士良・蕭世怡および降兵千人は長安へ送った。
周の人は土山・地下道を作って洛陽を攻めたが、30日経っても勝てなかった。宇文護は黄河より北の路を切断するよう諸将に命じ、斉の援軍を遮って、その後洛陽への一斉攻撃を行おうとした。諸将は斉軍が出てくることはないと考え、斥候を出すだけにとどめた。
斉は蘭陵王の高長恭(北斉の名将、雅楽・京劇・小説などの題材となっている)と大将軍の斛律光を洛陽の救援に派遣したが、彼らは周兵の強さを恐れ、あえて進まずにいた。高湛は并州刺史の段韶を召して言った「洛陽は危急であり、いま王を派遣してこれを救いたい。突厥が北に居り、こちらも防禦する必要がある。どうしたらいいのか」
段韶は答えて言った「北虜(突厥)は辺境を侵し、事態は疥癬(皮膚病の一種)に等しい。いま西隣(周)がねらい迫っているが、これは内臓の病である。南に行く詔を下されたい」
高湛は言った「朕の意もまたあなたと同じである」
こうして段韶に精鋭騎兵1千を率いて晋陽を発するよう詔を下し、高湛自身も晋陽から洛陽に赴いた。
段韶は晋陽を出てから5日で黄河を渡った。ちょうど暗い霧が連日出ていた(周の斥候が機能しなかった)。段韶は洛陽に到着すると、旗下の300騎を率いて諸将と邙山の坂に登り、周軍の形勢を観た。太和谷(現在地を同定できず、邙山付近の谷と思われる、太和は北魏元宏の年号であり洛陽遷都にちなんでの呼称か)に至ったところで周軍と遭った。段韶はすぐ諸軍営に馳せて告げ、騎士を追って集め、陣を固めて彼らと合流した。段韶は左軍となり、蘭陵王の高長恭が中軍となり、斛律光は右軍となった。周の人は不意に斉軍が来たため皆驚き恐れた。段韶は周の人に遠く呼びかけた「お前らの宇文護はやっと母を得たのに、すぐ攻めてきた、どういうことだ」
周の人は言った「天が遣わしたから我らは来た、他に問うべきことなどあろうか」
段韶は言った「天道は善を賞し悪を罰す。天がお前らを遣わしてここに寄越したのは死ぬためだ」
周の人は歩兵を前に出し、山を上って迎撃した。段韶は時に戦い時に退き周軍を誘った。周の戦力が疲弊するのを待ち、しかる後に下馬(馬を降りるではなく坂落としを仕掛けたと解釈したい)してこれを撃った。周軍は大敗し、あっという間に瓦解した。渓谷に転落する周の死者がはなはだ多かった。
蘭陵王の高長恭は500騎で周軍に突入し、ついに金墉(洛陽の北西にある防御施設であり、しばしば要人の幽閉にも用いられた:銭国祥 「漢魏洛陽城宮城調査における新発見とその構造」)城下に至った。城の上の斉兵が味方であると識別できなかったので、高長恭は兜を脱いで顔を示した。城から弩手が下りてきて高長恭を救出した。周軍で城下に居た者達は囲みを解いて逃げ去り、軍営は放棄された。邙山より穀水(河南省三門峡市澠池県付近を流れる川)に至り、30里の間に、川沢(川と沢、川と湿地)はあまねく軍資器械で満ちていた。ただ斉公の宇文憲、達奚武、および庸公の王雄(諡号は忠)が後ろにあり、兵を収めて防戦していた。王雄は馬を馳せて斛律光の軍列を突いた。斛律光は退走し、王雄は追った。斛律光の側近はみな散じ、奴婢1人と弓兵1人が残るのみとなった。王雄は矛を携えて斛律光から1丈(およそ3m)あまりの距離に迫ると斛律光に言った「私はお前を惜しみ殺さない、生かしたままお前を連れて天子(宇文邕)に見えよう」
斛律光は王雄を射て額に当たった、王雄は馬を抱えて走り、軍営に至ったところで死んだ。周の軍中はますます恐れた。
斉公の宇文憲が慰撫して監督し励まし、人々は少し安心した。夜になり、軍を収めると、宇文憲は夜明けを待ってさらに戦おうとした。達奚武は言った「洛陽軍は散り、人心は驚き震えている。もし夜に乗じて速やかに帰らなければ明日帰ろうとしても果たせない。私は久しく軍におり、軍の形勢に関する見識を供えている。公(宇文憲)はまだ若く軍事について未経験である。どうして軍営が数えるほどしかない兵卒に危険な戦いを委ねることができようか」
こうして帰った。権景宣もまた豫州を棄てて逃げた。
楊忠は兵を率いて沃野(渭水盆地という理解でよいか)を出て、突厥に応接したが、兵糧が支給されず、諸軍はこれを憂え、出撃できる目途が無かった。楊忠は稽胡(山西省呂梁市離石区付近に居た騎馬遊牧民)の酋長を誘い招き、みな座らせると、偽って河州刺史の王傑に兵を率いて鼓を鳴らさせ言った「大冢宰(宇文護)はすでに洛陽を平定し、突厥と共に稽胡で服さない者を討とうとしている」
坐の者はみな恐れ、楊忠は慰めさとして彼らを遣わせた。こうして諸々の胡はそれぞれ食糧を輸送し、兵糧は満載となった。周軍が退き帰ったことに伴い、楊忠もまた帰った。
宇文護は、もともと大将としての知略が無いのに戦役を行ったこと、またこの戦役が本意でなかったため(斉から母の返還があったばかり)功が無かったということで、諸将とともに稽首(頭を地につける)して謝罪した。宇文邕は慰労して稽首謝罪を止めさせた。
宕昌(甘粛省隴南市宕昌県の西にあった羌族の政権)の王である梁彌定がしばしば周の辺境を侵していた。周の大将軍である田弘がこれを討滅し、その地に宕州を置いた。

565年
2月、周は陳公の宇文純・許公の宇文貴・神武公の竇毅・南陽公の楊荐らを派遣し、皇后の往来に用いる警護の様式を備え、六宮(後宮の宮女)120人を伴って、突厥可汗の牙帳(遊牧民の都城もしくは将帥のテント)に詣で、可汗の娘を迎えようとした。
周は柱国で安武公の李穆を大司空とし、綏德公の陸通を大司寇とした。
宇文邕は岐州に行った。

4月、北斉で高緯が即位し、高湛は太上皇帝となった。軍国の大事は高湛が決裁した。

5月、突厥は遣使して斉に至り、初めて斉と通じた。

7月、宇文邕は秦州(甘粛省天水市一帯)に行った。

8月、宇文邕は長安に還った。

10月、周は函谷関城(河南省洛陽市新安県)を洛陽に通じる防衛施設とみなし、金州刺史の賀若敦を中州刺史とし、函谷関を鎮守させた。賀若敦は才を恃んで気を負っていたが、同輩がみな大将軍になったのに賀若敦一人なれていなかった。さらに湘州の役で全軍退却し(560年~561年の記事参照)恩賞を求めたが免官とされた。このため宮中の使者に対し恨み言を述べた。宇文護は怒って賀若敦を召還すると、迫って自殺させた。死にあたって息子の賀若弼に言った「わが志は江南の平定だったが、果たせないまま今に至った。おまえは必ずわが志を成せ。私は舌禍により死んだ、お前はこれを決して忘れてはいけない」
こうして錐で賀若弼の舌を刺して出血させ、舌禍を戒めた(賀若弼は南朝陳を滅ぼしたが、楊広=隋煬帝に対する舌禍で死んだ)。

566年
1月、周は大赦し、天和に改元した。
宇文邕は藉田を耕した。
周は小載師の杜杲を陳に派遣した。

3月、宇文邕は南郊で祀りを行った。

4月、陳の陳蒨が死んで皇太子の陳伯宗が即位した。

5月、吐谷渾で龍涸(四川省アバ・チベット族チャン族自治州松潘県付近)の王である莫昌が部落を率いて周に付いた。周はこの地を扶州とした。

7月、周は武功(陝西省咸陽市武功県)等の諸城を築いて軍士を置いた。

8月、周で信州(重慶市北東部)の蛮(南方系異民族)である冉令賢・向五子王らが巴峡(重慶付近の峡谷、三峡=瞿塘峡・巫峡・西陵峡の他に明月峡や広徳嶼などが候補となる:飯塚勝重 「中国長江三峡考」)に籠って反し、白帝(重慶市奉節県)を攻め落とし、与党は2千余里に連結した。周は開府儀同三司の元契・趙剛らを派遣し、前後から彼らを討ったが、ついに勝てなかった。

9月、周は詔で開府儀同三司の陸騰に開府儀同三司の王亮・司馬裔(司馬懿の弟である司馬馗の後裔)を監督させ、信州蛮を討った。陸騰軍は湯口(水經注 巻33によると、支流の湯渓水が長江に合流するところ:重慶市雲陽県付近か)に軍を置いた。冉令賢は江南(長江の南)の要害に篭り、城を10置き、涔陽(湖南省常徳市澧県付近)の蛮と遠く結んで援軍とすると、自身は精兵を率いて水邏城(現在地を同定できず)を固守した。陸騰が諸将を召して計を問うたところ、皆まず水邏を先に取り、後に江南を攻めるよう欲した。陸騰は言った「冉令賢は内に水邏・金湯(現在地を同定できず)の堅固を恃み、外に涔陽からの支援を託し、資金・食糧は充実し、器械は優れ新しい。我々遠征軍が彼らの堅固な堡塁を攻め、一戦して勝てなければ、彼らの士気は更に上がる。軍を湯口に屯し、先に江南を取って彼らの羽毛をむしり、その後水邏に進軍するのが良い。これは勝ちを制する術である」
こうして王亮に兵を授けて長江を渡らせ、10日で8城を抜き、捕虜と降伏する者は各城で千人を数えた。ついに驍勇の募兵を行い、複数のルートから水邏に進攻した。蛮帥の冉伯犂・冉安西は平素から冉令賢に恨みがあり、陸騰は説いて誘い、金帛(帛は絹のこと)を賄賂として、現地のガイドをさせた。水邏の傍らには石勝城(現在地を同定できず)があり、冉令賢は兄の子である冉龍真をここに籠らせていた。陸騰は密かに冉龍真を誘い、冉龍真はついに城ごと降った。水邏の兵は潰え、斬首1万余級、捕虜1万余口となった。冉令賢は逃げたが、周は彼を追って捕らえ、斬った。陸騰は水邏城のそばに死体を積み上げ京観とした。これ以後、群蛮はこれを望むと大いに哭き、あえてまた叛くことはなかった。
向五子王は石墨城に篭り、息子の向宝勝を双城に篭らせた(両城は重慶市奉節県付近にあったようだ)。水邏は既に平定され、陸騰はしきりに遣使して向五子王を諭したが、なお降らなかった。進撃して彼らをみな捕え、諸々の向氏酋長をことごとく斬り、捕虜は1万余口となった。信州の旧治所は白帝にあったが、陸騰はこれを八陳灘(重慶市奉節県の西北:諸葛亮が長江沿岸の砂浜に石を重ねて八陣を作ったとされ、この八陣に由来する地名)の北に遷し、司馬裔を信州刺史とした。
周の小吏部で隴西(甘粛省東南部)出身の辛昂は、梁州・益州(ともに四川付近の州)に奉使(朝廷の命を受けて使いする)し、また陸騰のために兵糧を督した。当時、臨州・信州・楚州・合州など(いずれも重慶周囲の州で南朝梁の旧領)で、民が乱に従うことが多かった。辛昂が利害で諭すと、赴くところたちまち帰服した。そして、老弱な者には食糧を負わせ、壮年男性には防戦させ、みな楽しみながら用事をこなした。使いの帰り道、ちょうど巴州の万栄郡(四川省巴中市巴州区付近)の民が反した、郡城を囲んで攻め、山道は途絶した。辛昂は仲間に言った「凶猾でたけり狂っている。もし上の決裁を待てば、孤立した城は必ず落ちる。もし百姓に利があるなら、我々の思う通りにして良いはずだ」
ついに通州(陝西省銅川市一帯)・開州(重慶市開州区一帯)の2州で募兵し、3千人を得た。道中倍の速度で昼夜兼行し、賊徒の不意に出て、賊の堡塁に直行した。賊は大軍が来たと思い、形勢に従って瓦解し、一郡を全うすることができた。周朝は辛昂を嘉し、渠州(四川省達州市一帯)の刺史とした。

11月、周は陳に弔問の使者を派遣した。
宇文邕は武功などの新城を視察した。

12月、宇文邕は長安に還った。

567年
1月、宇文邕は藉田を耕した。

2月、陳で陳頊による重臣の粛清が相次いだ(劉師知・到仲挙・韓子高、いずれも陳蒨に信任された者達)。

4月、陳の湘州刺史である華皎は、韓子高の死を聞いて内心不安になり、武具を修繕し兵を集め、指揮下の部隊を安撫した。言上して広州(広東省付近)の地を求め、朝廷の意を窺った。陳の司徒である陳頊は偽ってこれを許したが、詔書はまだ出なかった。華皎はひそかに遣使して周の兵を引き込み、自身は後梁に帰順して、息子の華玄響を人質とした。

5月、陳頊は丹楊尹の呉明徹を華皎に代わる湘州刺史とした。
司徒の陳頊は呉明徹に水兵3万を授け郢州に向かわせ、征南大将軍の淳于量に水兵5万を授け後続とした。また、冠武将軍の楊文通を安成(江西省吉安市付近)より歩道で茶陵(湖南省株洲市茶陵県)に出させ、巴山太守の黄法慧を宜陽(江西省宜春市袁州区)より澧陵(湖南省株洲市醴陵市)に出させ、共に華皎を襲わせた。さらに、江州刺史の章昭達・郢州刺史の程霊洗と合議して討伐軍は進んだ。

6月、司空の徐度が車騎将軍となり、建康諸軍を総督し、歩道で湘州に向かった。
宇文邕は母の叱奴氏を尊び皇太后とした。
華皎の使者が長安に着いた。後梁もまた上書して状況を報告し、兵を請うた。周の人は彼らに応じて出兵するよう議した。司会の崔猷は言った「先年の東征(564年の洛陽攻防)で死傷者は過半となり、このごろ安撫したといえども傷は回復していない。いま陳氏は国境を保全し民は安息で、わが国の良き隣国として共に仲睦まじくしてきた。かの国の土地を利そうと叛臣を納め、盟約の信を違えて大義名分の無い戦を興すなど、もってのほかだ」
宇文護はこれに従わなかった。

閏6月、襄州総管で衛公の宇文直に、柱国の陸通や大将軍の田弘・権景宣・元定らを率いさせ、兵を授けて華皎の援助に向かわせた。

8月、華皎は遣使して章昭達を誘ったが、章昭達は使者を捕らえて建康に送った。また、程霊洗も誘ったが、程霊洗は使者を斬った。華皎は武州(湖南省・湖北省・貴州省・重慶市・広西チワン族自治区にまたがる地域)が自身の勢力圏内部にあることから、遣使して武州都督の陸子隆を誘ったが、陸子隆は従わなかった。派兵して陸子隆を攻めたが勝てなかった。巴州刺史の戴僧朔らは並んで華皎に隷属し(陳蒨は華皎を都督湘・巴等四州諸軍事に任じていた)、長沙太守の曹慶らはもともと華皎の下に隷属し(長沙郡は湘州に属する)、ついに彼らは華皎の用いるところとなった。陳の司徒である陳頊は長江上流の守将がみな華皎に付くことを恐れ、湘・巴の2州に曲赦(ある地方に限って罪人をゆるす、または租税の免除)した。

9月、陳頊は華皎の家族をことごとく誅殺した。
梁は華皎を司空とし、柱国の王操に兵2万を授けて華皎への援軍として派遣した。周の権景宣は水軍を率い、元定は陸軍を率い、衛公の宇文直はこれらを総督し、華皎と共に長江を下った。陳の淳于量は夏口(湖北省武漢市、長江と漢水の合流地点、漢水の別名に夏水がありこう呼ばれる)に軍を置いた。宇文直は魯山(江西省九江市にある廬山か)に軍を置き、元定に歩騎数千を授け郢州を囲ませた。華皎は白螺(長江北岸にある山のようだ)に軍を置き、呉明徹らと対峙した。徐度・楊文通は山道経由で湘州を襲い、その地に留めていた兵士の家族をことごとく獲た。
華皎は周・梁の水軍と合流しつつ巴陵より長江の流れに従い、風に乗って下ったため、軍勢ははなはだ盛んで、沌口(湖北省武漢市蔡甸区付近)で戦った。淳于量・呉明徹は多くの金銀を褒賞として軍中の小艦を募り、まず出させて西軍(華皎・周・梁の連合軍)の大艦に当たらせてその拍(戦艦が備える打撃用の竿)を受けた。西軍の諸艦が拍を発し全て尽きると、その後で淳于量らは大艦で西軍の艦船に拍を撃った。西軍の艦船は全て砕け、長江の流れの中に没した。また、西軍は薪を艦載し、風上を利用して火を放った。にわかに風向きが変わって、自軍が焼け、西軍は大敗した。華皎と戴僧朔は単舸(乗船スペースが1列しかない船、もしくは1人乗りの舟)で逃げた。巴陵を過ぎたが、あえて接岸せず江陵に直行した。衛公の宇文直もまた江陵に逃げた。
周の元定は軍が孤立し、進退に路無く、竹を切って道を開き、あるいは戦いあるいは引き、巴陵に向かおうとした。巴陵は既に陳の徐度らに占拠され、徐度らは遣使して帰国を許すという偽りの盟約を結んだ。元定はこれを信じ、武装を解除して徐度のもとに行ったところ、徐度は元定を捕らえ、元定の兵をことごとく捕虜とすると、あわせて梁の大将軍である李広もとりことした。元定は憤怒して死んだ。
華皎の与党である曹慶ら40余人はみな誅殺された。ただし、岳陽太守の章昭裕(章昭達の弟)、桂陽太守の曹宣(陳覇先の旧臣)、衡陽内史で汝陰(安徽省北部と河南省南部にまたがる地域)出身の任忠(過去に建康へ密告していた)はみな許された。
呉明徹は勝ちに乗じて梁の河東(湖北省荊州市松滋市)を攻め、これを抜いた。
周の衛公である宇文直は、敗戦の罪を梁の柱国である殷亮に帰した。梁主(蕭巋)は殷亮に罪がないことを知りながら、あえて逆らうことはせず、ついに殷亮を誅殺した。
周と陳の関係が険悪となり、周の沔州刺史である裴寬は襄州総管に告げ、守備兵を増やし、あわせて城を羊蹄山(湖北省孝感市漢川市にある山)に遷して水場を避けるよう請うた。総管の兵が来ないうちに、程霊洗の水軍が城下に急襲してきた。ちょうど大雨で水嵩が急増しており、程霊洗は大艦を率いて城に臨むと拍を発射し、城垣を撃つとみな砕けた。矢と石で昼夜攻めること30余日、陳の人は城に登った。裴寬はなお兵を率いて短い武器を取り防戦した。さらに2日かけて、陳は裴寬を捕らえた。

11月、周の許公である宇文貴は突厥より帰ったが、張掖(甘粛省張掖市)で死んだ。諡号は穆。
(565年2月、宇文純・宇文貴らは可汗の娘を迎えるため突厥へ行ったものの、そこで抑留された。宇文貴は疾病のため先に帰ることを許可された)

12月、周の晋公である宇文護の母が死んだ。宇文邕は詔して宇文護を助け起こし、引き続き政事に関わらせた(ここの訳は自信がない、服喪を許さなかったくらいの軽い解釈でもよいか:原文 「詔起、令視事」)。

568年
1月、宇文邕は南郊で祀りを行った。

2月、宇文邕は武功に行った。
突厥の木杆可汗は周に二心あり、さらに斉の人との結婚を許可し、周の陳公である宇文純らを数年抑留して返さなかった。ちょうど大きな雷と風があり、突厥のテントが壊れ、10日止まなかった。木杆は恐れて天罰と考え、すぐに礼を備えて娘を周へ送ることとし、宇文純らは彼女を奉じて帰った。

3月、木杆の娘が長安に到着した。宇文邕は自ら彼女らを迎えに行き礼をした。翌日、周で大赦が行われた。
周の燕公である于謹が死んだ、諡号は文。于謹は勲功が高く官位も重く、にもかかわらず上に仕える様子は大変恭しく、毎朝参上し、従者は2,3騎を超えなかった。朝廷に大事があれば、于謹とそのことについて謀ることが多かった。于謹は忠を尽くして補益(不足を補って益を与える)し、功臣の中でも特に宇文邕の信を受けた。礼遇は立派で、終始途切れることがなかった。諸子に教訓し、静かに退くよう努めたが、子孫の数は増え、概ねみな栄達した。
陳の呉明徹は勝ちに乗じて江陵へ進攻し、水攻めを行った。梁主は江陵を出て紀南(江陵の北10余里ほどの城)に留まり、陳の攻撃を避けた。周の総管である田弘は梁主に従い、副総管の高琳と梁の尚書僕射である王操は江陵三城を守り、昼夜防戦すること100日。梁の将である馬武・吉徹が呉明徹を攻撃し、これを破った。呉明徹は退いて公安(湖北省荊州市公安県)を保ち、梁主は江陵に還ることができた。

4月、周は達奚武を太傅とし、尉遅迥を太保とし、斉公の宇文憲を大司馬とした。

5月、宇文邕は太廟を享けた。宇文邕は醴泉宮(陝西省咸陽市淳化県にある甘泉宮:趙政=秦始皇帝が離宮として造営し、劉徹=漢武帝が増築した)に行った。

7月、周の隨公である楊忠が死んだ、諡号は桓。息子の楊堅が爵位をつぎ、楊堅は開府儀同三司・小宮伯となった。宇文護は楊堅を引き込んで腹心にしようとした。楊堅が楊忠に報告したところ、楊忠は言った「両姑の間で婦となるのは難しい(宇文邕と宇文護の間で処世する難しさを説いた比喩か、舅の独狐信への義理立てという線も)。お前は行ってはならない」
楊堅はこうして宇文護の誘いを辞退した。
宇文邕は長安に還った。

8月、斉は周との和を請い、周は軍司馬の陸程を斉に派遣した。

9月、斉は侍中の斛斯文略を派遣して周に返報した。

10月、宇文邕は太廟を享けた。

11月、宇文邕は岐陽に行った。
周は開府儀同三司の崔彦らを斉に派遣した。
陳で皇帝の陳伯宗が廃位された。
斉の上皇である高湛が死んだ。
周の梁州で恒稜(四川省南充市付近)の獠(南方系異民族)が叛いた。総管長史で南鄭(陝西省漢中市)出身の趙文表がこれを討った。諸将は四面からの進攻を欲したが、趙文表は言った「四面から攻めれば、獠に活路が無く、必ず死を尽くして我らを拒み、容易に勝てない。いま我らは賞罰を示し、悪をなす者は誅し、善に従う者は安撫する。善悪が分明になれば、獠を破るのは容易い」
ついにこの意向をあまねく軍中に令した。時に周へ内応した獠が従軍しており、多くは恒稜と面識があった。即以実報之(ここは上手く訳せない、周が賞罰で獠に応じる実情を恒稜に伝えたというところか)。恒稜はなおぐずぐずと態度を決せず、趙文表軍は既に勢力圏の境界へ到着した。獠内で先に進むには2つのルートがあった。1つは平坦で1つは険しい。獠帥数人が会いに来てガイドとなることを請うた。趙文表は言った「この道は平易でガイド不要である。あなたはただ先行して子弟を慰め諭し、来降させてほしい」
こうして彼らを送り出した後、趙文表は諸将に言った「獠帥は我々が緩い路に従って進むと言い、必ず伏兵を設けて我らを迎える。さらにその不意に出るのが良いだろう」
こうして兵を率いて険路より入った。高所に乗って望むと、はたして伏兵あり。獠は既に計を失い、争うように人々を引き連れて来降した。趙文表は彼らをみな慰撫した。彼らから租税を徴収したところ、あえて違える者は居なかった。周の人は趙文表を蓬州長史とした。

569年
1月、宇文邕は斉世祖(高湛)の喪を理由に朝会を止め、司会の李綸を派遣して弔贈と会葬を行った。
陳の安成王である陳頊が皇帝に即位した。

2月、斉は侍中の叱列長叉を周に派遣した。

5月、宇文邕は醴泉宮に行った。

7月、宇文邕は長安に還った。

8月、盗賊が周の孔城(河南省洛陽市伊川県付近)の防主を殺し、その地は斉に編入された。

9月、周は斉公の宇文憲と柱国の李穆に兵を授けて宜陽(河南省洛陽市宜陽県)へ派遣し、崇徳など5城を築いた。

11月、周の鄫公である長孫倹(爾朱天光や宇文泰に仕えた旧臣)が死んだ、諡号は文。

12月、周の斉公である宇文憲は斉の宜陽を囲み、その糧道を絶った。
華皎の乱より、陳と周は絶交していた。ここに至り周は御正大夫の杜杲を陳に派遣し、旧好の修復を請うた。陳頊はこれを許し、遣使して周に向かわせた。

570年
1月、斉の太傅である斛律光は歩騎3万を率いて宜陽を救い、しばしば周軍を破った。統関・豊化の2城を築いて還った。周軍はこれを追ったが、斛律光が猛攻して、また周を破ると、周の開府儀同三司である宇文英・梁景興を捕らえた。

4月、周は柱国の宇文盛を大宗伯とした。
宇文邕は醴泉宮に行った。

7月、宇文邕は長安に還った。
陳の司空である章昭達が梁を攻め、梁主と周の総管である陸騰が防戦した。周の人は西陵峡出口の南岸に安蜀城(湖北省宜昌市付近、三峡の手前で敵を食い止める算段なので蜀を安んじるの意)を築き、長江の上に大きいロープを横に渡すと葦を編んで橋とし、これで兵糧を運んでいた。章昭達は兵士に命じて長い戟を楼船(屋形船)の上に置き、上方を仰いでロープを斬らせた。ロープは断たれ、兵糧は絶えた。すると章昭達は兵を放って安蜀城を攻め、これを下した。
梁主は周の襄州総管で衛公の宇文直に急を告げ、宇文直は大将軍の李遷哲に兵を授けて救援させた。李遷哲の旗下の兵で江陵外城を守らせ、自ら騎兵を率いて南門より出て、歩兵は北門より出させて、前後から陳軍を迎撃し、陳兵は多く死んだ。夜、陳兵は密かに江陵城の西にいき梯子で城に登り、既に数百人が登り終えた。李遷哲と陸騰は力戦してこれを防いだため、陳軍は退いた。章昭達はまた龍川の寧朔隄を決壊させ、江陵を水攻めした。陸騰は出て西隄で戦い、章昭達軍は不利だった、こうして章昭達は江陵から引いて還った。

10月、周の鄭公である達奚武が死んだ、諡号は桓。

12月、周の大将軍である鄭恪は兵を率いて越巂(四川省西南部と雲南省東北部にまたがる地域)を平定し、西寧州を置いた。
周と斉は宜陽を争ったが久しく決着をみなかった。勳州刺史の韋孝寬は部下に言った「宜陽は城1つの地であるに過ぎず、領土の帰趨に伴う損益は大したことがない。にもかかわらず両国はこの地を争い、戦役は1年を過ぎた。彼らに智謀の士が居ないはずはなく、もし崤東(中国河南省洛寧県にある崤山から東の地、つまり宜陽)を棄て、汾北(太原盆地から黄河に注ぐ汾水の北側、山西省臨汾市郷寧県付近)の包囲に向かえば、我らは必ずその地を失う。いま速やかに華谷および長秋に築城し、その意図を挫くべきである。もし我らが先に動けば、包囲は実に難しくなる」
こうして地形を書き、現地の様子をつぶさに申し立てた。宇文護は使者に言った「韋公の子孫は多いと言えども、数は百に満たない。汾北に築城したとして、誰を守りに遣わすというのか」
こうして築城は行われなかった。
斉の斛律光ははたして晋州道を出て、汾北に華谷・龍門の2城を築いた。斛律光は汾東(汾水の東、山西省臨汾市翼城県付近)に至り、韋孝寬と相まみえた。斛律光は言った「宜陽の一城に久しく労して戦争した。いま既にかの地を捨て、代償として汾北の地を取りたいと思う。この動きを全く怪しまれなかったのは幸いだった」
韋孝寬は言った「宜陽、かの地は要衝であり、汾北は我らの棄てるところ。我々は汾北を棄てて宜陽を取った、汾北など代償として安いものよ。君は幼主(高緯)を輔佐し、地位と人望は立派であるのに、百姓を安撫せずに、武を窮め兵を窮め、いやしくも尋常の地を貪り、疲弊した民をさらに苦しめている。ひそかに君のために汾北は取らずにおいたのだ」
斛律光は進んで定陽(山西省臨汾市吉県)を囲み、南汾城を築いてこれに迫った。周の人は宜陽の囲みを解いて汾北を救援した。宇文護が計を宇文憲に問うたところ、宇文憲は言った「兄(宇文護)はしばらく同州を出て、声威と気勢を高めるのがよい。憲は精兵で前に居り、機に従って攻め取るよう請う」
宇文護はこれに従った。

571年
1月、斉の斛律光は西側国境(汾北の西は黄河で周の領域)に13城を築いた。馬上で鞭を持って指で示しながら完成させ、拓いた地は500里、それでも未だかつて功を誇らず。
また、周の韋孝寬と汾北で戦い、韋孝寬を破った。宇文憲は諸将を督して東から来る斉軍を防いだ。

3月、宇文憲は龍門より渡河し、斛律光は退いて華谷を保った。宇文憲は汾北に新築されたうちの5城を攻めて抜いた。斉の太宰である段韶・蘭陵王の高長恭は兵を率いて周軍を防ぎ、柏谷城(山西省運城市にあったとされる)を攻め、これを抜いて還った。

4月、周の陳公である宇文純は斉の宜陽など9城を取り、斉の斛律光は歩騎5万を率いてこれに赴いた。

5月、周は納言の鄭詡を陳に派遣した。
宇文護は中外府参軍の郭栄に、姚襄城(姚襄が桓温に負けた後、平陽に逃げて築城したという)の南・定陽城の西で築城させた。斉の段韶は兵を率いて周軍を襲い、これを破った。

6月、段韶は定陽城を囲んだが、周の汾州刺史である楊敷が固守し、下すことができずにいた。段韶は急攻し、その外城をほふった。時に段韶は病で臥せ、蘭陵王の高長恭に言った「この城の3面は重澗(渓谷が深いさま、城堀の険しさに対する比喩か)でいずれも走路がない。ただ東南の一道だけがあるように思う、賊は必ずここから出る。精兵を選びここを専守するのがよい。必ず賊をとりこにできるだろう」
こうして高長恭は壮士1千余人に命じて東南の潤口(谷川の入り口)に伏兵させた。城中で食糧が尽き、宇文憲は兵を総べてこれを救おうとしたが、段韶をはばかり、あえて進めなかった。楊敷は見回り兵を率いて包囲を突破し夜に逃げたが、伏兵がこれを撃って捕らえ、その兵をことごとく捕虜とした。
斉は周の汾州および姚襄城を取り、ただ郭栄の築いた城のみが残った。
楊敷の子である楊素は、幼くして才と芸が多く、大志あり、小節(ちょっとした義理)に拘らなかった。彼の父が節を守って斉におちいったが、いまだ諡号を贈られていないため、申理(明らかにしおさめる)するよう上表した。宇文邕は許さなかったが、上表が再三来た。宇文邕は大怒し、左右に楊素を斬るよう命じた。楊素は大声で言った「臣(臣下の1人称)は無道の天子に仕えた、その分際には死が相応しい」
宇文邕は楊素の言葉を壮(立派である)とし、楊敷に大将軍を贈り、諡号を忠壮(武を遂げられなかった者は壮とする作法)とした。楊素を儀同三司とし、ようやく礼遇された。宇文邕が楊素に命じて詔書を作らせると、筆が下りればたちどころに成り、文章は条理と美しさを兼ねていた。宇文邕は言った「これ(文筆業のことか)に勉めよ、富貴でないことを心配する必要はない」
楊素は言った「ただ富貴が臣のもとに来て迫ることを恐れる。臣に富貴を図る気持ちはないのだ」
斉の斛律光は周軍と宜陽の城下で戦い、周の建安など4つの戍(守備兵の陣営)を取り、捕虜千余人を得て還った。

9月、斉の平原王である段韶が死んだ、諡号は忠武。

10月、周の冀公である宇文通(宇文泰の息子)が死んだ。
周は右武伯の谷会琨らを斉に派遣した。

11月、宇文邕は散関(陝西省宝鶏市の西南にある大散嶺の上に置かれた関所)に行った。

12月、宇文邕は長安に還った。
この歳、梁の華皎はまさに周に行こうとし、襄陽(湖北省襄陽市)に着き、衛公の宇文直を説いて言った「梁主はすでに江南諸郡を失い、民は少なく国は貧しい。朝廷の興亡や断続を考えると、資財を援助するのがよい。数州を借りて梁国に資するのを望む」
宇文直はその理屈に納得し、遣使して状況を報告した。宇文邕は詔で基(湖北省荊門市鍾祥市付近)・平(湖北省宜昌市当陽市付近)・鄀(湖北省荊州市松滋市付近)の3州を梁に与えた。

572年
2月、周は大将軍で昌城公の宇文深(宇文護の子)を突厥に派遣し、司賓の李除と小賓部の賀遂礼を斉に派遣した。

3月、かつて周太祖(宇文泰)が西魏の相となり、左右12軍(計24軍、前出)を立て、全て相府(つまり宇文泰の幕府)に属した。宇文泰が死ぬと、宇文護がその全てを譲り受けた。およそ24軍の徴発は宇文護の書面がなければ行われなかった。宇文護の邸宅には衛兵が屯し、その盛んさは宮城を凌いだ。宇文護の諸子・属官はみな欲深く凶悪でほしいままに振る舞い、士民はこれを患っていた。宇文邕は自らを深く晦匿(才能を隠して世間から隠れる)し、関与するところなし、人はその浅深を測れなかった。
宇文護は稍伯大夫の庾季才に問うて言った「このごろ天道(天文だけでなく、宇文邕の動向とも読めるが)はどうか」
庾季才は答えて言った「深く厚い恩を身に受けているので、全て言わせていただこう。このごろ上台(人臣の頂点たる三公を象徴する2つの星)に変あり。公(宇文護)は政を天子(宇文邕)に帰し、臣下の家として老後を過ごすよう請うのがよい。こうすれば100年の寿命を享け、周公旦(姫旦)・召公奭(姞奭)の美徳を受け、子孫は常に藩屏となる。そうしなければ、どうなるか分からない」
宇文護はこの言葉について深く考えて言った「私も本よりそのような志であるが、ただ辞してもまだ免れることができない。公(庾季才)は既に王官(宇文邕に属する官というところか)なので、朝廷の決まりに従うべきだ。別に寡人(宇文護はへりくだって自称)のために煩うことはない」
宇文護はこれより庾季才を疎んじた。
衛公の宇文直は帝の同母弟で、宇文護と親密だったが、沌口の敗戦(567年9月の記事参照)に坐し免官された。こうして宇文直は宇文護を怨み、宇文邕に宇文護の誅殺を勧め、宇文護の地位を得ようとこいねがった。宇文邕は宇文直および右宮伯中大夫の宇文神挙・内史下大夫で太原出身の王軌・右侍上士の宇文孝伯と、宇文護誅殺について密かに謀った。
宇文邕は禁中で宇文護と会うたびに、常に家人の礼(兄に対する礼)を行っており、太后が宇文護の坐を備え、帝はかたわらで立ったまま侍った。宇文護は同州より長安へ還り、宇文邕は文安殿に出向いて宇文護と会った。さらに含仁殿へ宇文護を引き入れて太后と謁見させようとし、さらに宇文護へ言った「太后は年をとってから、すこぶる飲酒を好むようになり、私がしばしば諫めても、聞こうとしない。兄がいま入朝したので、さらに太后のもとまで来てほしい」
こうして宇文護は懐中より「酒誥(尚書・周書にある:姫誦=周成王が飲酒を戒めた文)」を取り出して宇文邕に授けると、言った「これで太后を諫めよう」
宇文護は既に入り、皇帝が戒めているかのように「酒誥」を読んだ。読み終わらないうちに宇文邕が宇文護の後ろから玉珽(皇帝が持つ玉製の笏)で打った。宇文護は地に倒れた。宇文邕は宦官の何泉に刀で宇文護を斬るよう命じたが、何泉は恐れかしこまり、斬って傷つけることができなかった。衛公の宇文直が戸内に隠れており、躍り出て宇文護を斬った。ときに宇文神挙らはみな外におり、他に知るものは無かった。
宇文邕は宮伯の長孫覽らを召し、宇文護が既に誅殺されたことを告げた。そして、宇文護の息子達、柱国で譚公の宇文会・大将軍で莒公の宇文至・崇業公の宇文静・正平公の宇文乾嘉、およびその弟の乾基・乾光・乾蔚・乾祖・乾威、あわせて柱国で北地(甘粛省東部と寧夏回族自治区および陝西省北西部にまたがる地域)の侯龍恩・その弟で大将軍の侯万寿・大将軍の劉勇・中外府司録の尹公正と袁傑・膳部下大夫の李安らを捕らえるよう命じ、彼らを殿中で殺した。
かつて、宇文護が趙貴らを殺して以降(557年頃の北族勲貴粛清)、侯龍恩は宇文護と懇意になった。侯龍恩の従弟で開府儀同三司の侯植は侯龍恩に言った「主上(宇文邕)は年ととも成長し、数人の公の安危に繋がっている。もし誅殺を多用して権威を立てようとすれば、社稷が累卵(卵を重ねるような)の危うさとなるだけで済もうか。おそらく我が宗族はこの縁により滅びるだろう。兄はどうしてこれを知る立場にありながら言わないのか」
侯龍恩はこの言葉に従えなかった。侯植はまた人づてで宇文護に言った「公(宇文護)は骨肉の親(皇室にとって血を分けた肉親)であり、まさに社稷の頼るべき存在であり、誠心で王室に仕え、伊尹・姫旦の事跡をなぞらえるよう願う。そうすれば率土(天子の治下全体・地のかぎり)ははなはだ幸いとなる」
宇文護は言った「私は身をもって国に報じるよう誓っているが、お前は私に別の志があるというのか」
また先の侯龍恩への発言を聞き、侯植を密かに忌み、侯植は憂いをもって死んだ。宇文護が敗れるにおよび、侯龍恩の兄弟はみな死んだが、高祖(宇文邕)は侯植を忠とし、その子孫は特別に免じた。
大司馬兼小冢宰・雍州牧で斉公の宇文憲は、平素より宇文護に親しく任じられ、賞罰の際は、みな参与することができ、権勢はすこぶる盛んだった。宇文護は宇文邕に陳情したいと思った場合、多くは宇文憲に奏上させた。主相(主=宇文邕と相=宇文護)の間で可否が生じることもしばしばあるが、宇文憲は主相が嫌悪しあうのを慮り、まいど婉曲して両者の意向を通した。宇文邕はまたその心を察していた。宇文護の死におよび、宇文邕は宇文憲を召し入れ、宇文憲は冠を脱いで拝し謝罪した。宇文邕は宇文憲を慰め励まし、宇文護の家に派遣して兵符および諸文籍を収めさせた(兵権と公文書の授与、宇文護の後継者とした)。衛公の宇文直は平素より宇文憲を忌み、宇文憲を誅するよう固く請うたが、宇文邕は許さなかった。
宇文護の世子である宇文訓は蒲州刺史となっていたが、この夜、宇文邕は柱国で越公の宇文盛を馬を乗り継がせて派遣して宇文訓を捕らえ、同州に至ったところで死を賜った。昌城公の宇文深は突厥への使いからまだ帰っていなかったが、宇文邕は開府儀同三司の宇文徳に勅書を持たせて派遣し、宇文深を殺させた。宇文護の長史で代郡(河北省張家口市蔚県付近)の叱羅協、司録で弘農出身の馮遷、および宇文護が自ら任じた者らは、みな免官となった。
周で大赦・改元が行われた。

放論
西魏は名目上、北族勲貴による集団指導体制を取っていた。それが北周という宇文氏主導の体制へ変質したことについて、宇文護の役割は極めて大きいと分かった。
半面、北族勲貴への抑圧策は彼らの不満を招き、後の楊堅による簒奪に至ったと考えられる。宇文邕や宇文憲の死で宇文氏周囲が弱体化したとき、宇文氏に与する北族は親戚の尉遅迥しか居なかったのだ。宇文氏は婚姻で与党を増やすよう努力していた(会田大輔 「北周宗室の婚姻動向」)が、効果は限定的だったようだ。
宇文氏は六鎮の乱やその後の乱世で親族を多く失っており、韋孝寛をはじめ優秀な漢人層にしばしば宇文氏を名乗らせていた(宇和川哲也 「西魏・北周の胡姓賜与」)が、彼らも宇文氏を守る藩屏として十分な役割を果たしたとは言い難い。西魏・北周が胡姓など北方の習俗を重視したことや、要職を北族が占めていたことなど、漢人にも潜在的な不満があったのかもしれない。

宇文護の外交に関する基本方針として、南朝陳との和親が印象に残った。そもそも陳覇先は、北斉由来の皇帝を受け入れようとした王僧弁に反抗した勢力であり、その後も北斉の傀儡である王琳と衝突している。陳昌・陳頊と重要な皇族が長安で人質生活を経験している点も注目される。陳覇先の勝利・陳頊の簒奪、その背後に西魏・北周による調略を疑ってもおかしくないほど、南朝の政治展開は西魏・北周に好都合な進行を見せている。
陳との和親が目立つ一方で、吐谷渾との衝突は割と見られた。単純な二元論で割り切るのは危ういが、下の大まかな分類が許容されるように思う。
 親東魏・北斉の勢力:王僧弁、王琳、吐谷渾
 親西魏・北周の勢力:南朝陳、後梁、突厥
多少の例外はあるが、宇文護は南朝陳に対して積極的に軍功を得ようとしていない。こうして北斉に集中する政策を採ったが、圧倒的な国力・軍事力を持つ北斉相手に軍功を得るのは容易でない。それでも、北斉に二正面を強いた外交努力がのちの逆転勝利に至ったと考えられる。よく考えると前燕も華北平原を掌握しながら、東晋と前秦に相次いで攻撃され滅びた。それに対して、石勒は劉曜・祖逖に面しながら、祖逖との軍事衝突を極力避けて劉曜に注力した。

宇文毓の人徳や志には光るものがあったように思うが、宇文邕が成長して力をつけるまで腕力・統率力で宇文護を凌ぐ宇文氏は存在しなかった。北斉という大敵を控え、強者揃いの北族勲貴がひしめく中で、宇文護に後事を託した宇文泰の判断は適正だった。宇文護は宇文泰の息子を2人殺しているが、それを宇文護の私的動機によると決めつけるのは早計と思われる。少なくとも宇文覚による宇文護排除は、北周・宇文氏の隆興に逆行する愚行だった。宇文泰の遺言にあった「吾志」が実際のところ何を指していたのか興味深いところだ。

東魏・北斉の首都は鄴で、西魏・北周の首都は長安。ここまでは良いが北朝分裂期を解釈する場合はもう少し解像度の高い地理的前提が必要となる。それは高歓が覇府を置いた晋陽と、宇文泰が覇府を置いた華州である。まず晋陽だが、中華北寄りに位置する山西は騎兵の調達に有利で、北魏はこの地を足掛かりに華北を席巻した。また、高歓にとって軍事力の源泉だった六鎮に近く、さらに爾朱栄以来の覇府としての歴史もある。続いて華州についての考察を行う。東魏・北斉からの防衛を意識した時、蒲坂と潼関という2大要衝が決定的な意味を持つ。華州に居ればこの両者と緊密に連携を取りつつ、適所に軍を動かせる。仮に長安からだと色々と手遅れになるリスクがある。蒲坂・潼関ラインを突破された沙苑の戦いは宇文泰にとって最大の危機だったが、それでも自身が最終防衛ラインとしての役割を完遂し、戦線を押し返した。
高歓は魏の皇族を王都の鄴に置きつつ、自身は晋陽の覇府で戦略を練った。同様に、宇文泰は魏の皇族を王都の長安に置きつつ、自身は華州の覇府で戦略を練った。北斉成立により高氏のウエイトは鄴へシフトしていったが、北周成立後も宇文護は宇文泰直系を王都の長安に置きつつ、自身で同州の覇府を機能させ続けていた。
そして563年末から、北周・突厥連合軍が北斉の軍事中心だった晋陽を脅かし、その周囲を荒廃させた点に注目せねばならない。あるいはここが北斉と北周の立場逆転を決定づけるターニングポイントだったのかもしれない。
蒲坂と潼関だが、当初は晋陽に接続する蒲坂の脅威度がより高かった。その蒲坂に宇文泰は宇文護を派遣していた(前島佳孝 「西魏の統治領域区分についての補論」)。つまり宇文泰は、宇文護を身内のうちで最優と評価していた。
ちなみに、蒲坂への脅威を緩和するための前哨基地が玉壁であり、潼関への脅威を緩和するための前哨基地が弘農である。これらの防衛体制を整えた王思政・韋孝寛らにより、西魏・北周は圧倒的国力を持つ東魏・北斉をもってしても容易に突破できない戦略的縦深性を備えることができた。
実は、戦国合従軍と秦の争い・楚漢戦争でも、戦略的縦深性の東西非対称が成否を分けており、渭水盆地の軍事的優位性を思い知らされる。

南北朝後期を嗜む者の常で、まずは敬愛すべき宇文泰・宇文邕を中心に据えてこの時代を理解してきた。ところが、宇文護周囲を読み終えた今は、高洋と高湛の生き方に、何ともいえない魅力を覚えつつある。
そして、段韶・斛律光・高長恭、北斉を代表する3名将が戦場で躍動する描写にはやはり心躍る。
北周の中では、于謹の働きが印象に残った。

宇文毓の遺言、および宇文護母子の書簡に感銘を受けた(資治通鑑では一部の抜粋に留まるが)。
この両者について論じた文献もあり(福井佳夫 「宇文護母子の書簡文について」)、とても参考になった。文選編纂後かつ北朝の文章ということでそれほど注目されていないが、吟味する価値のある名文だと思う。

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