宇文泰 善手を積み重ね関中政権による統一を決定づけた南北朝最高の指導者

宇文泰の祖先は宇文部の族長家系である。宇文部はもともと匈奴だったが、その後鮮卑に所属し、中華東北部に割拠した。鮮卑慕容部と鎬を削ったが敗北し燕に編入。その後は北魏に属し、宇文泰の父である宇文肱は武川鎮に配せられていた。宇文肱は六鎮の乱で鎮圧側→反乱側(鮮于修礼)と立場を変え、その後鎮圧軍との闘いで戦死した。宇文泰は乱を鎮圧した爾朱栄傘下として、武川軍主の家系である賀抜岳に従った。
爾朱栄は暗殺され、高歓が北魏の実権を握っていった。賀抜岳は関中(渭水盆地、現在の陝西省付近)で自立する構えを見せたのだが、高歓の謀により暗殺された。
その後、賀抜岳に続いて武川鎮を率いたのが、宇文泰である。

北周の基礎を作り、事実上の創立者である宇文泰だが、影響はそれだけにとどまらない。北周の華北統一だけでなく、隋・唐の中華統一も、宇文泰の国家作りの延長線上にあるからだ。

宇文泰の凄さを語る上で言及しないといけないことは3つある

①制度設計における先見性
北魏より始まった均田制(領民に土地を支給し、その産出から税を取る仕組み)を徹底し、新たに府兵制(均田制で土地を支給された農民から、税の優遇措置を与えつつ徴兵する仕組み)を始めた。均田制+府兵制の恩恵は計り知れないものがあり、隋・唐にも受け継がれた。
また、宇文泰は漢人儒士の蘇綽を重用し、官員を減らして屯田に励むなどの政治改革を行った。加えて、古来より漢人・儒家が理想とした周の制度を目指し、徳治主義を重んじた。後に宇文氏の王朝が周を名乗ったのは承知の通りである。
こういった漢人好みの官制整備に対し、軍制では八柱国・十二大将軍など北族主体の体制を貫いた。さらに、北魏で軽視されていた胡姓を復活させ、漢人にも積極的に胡姓を付与した。
西魏に関していえば、本貫地を関中に移行させ、北族の六鎮・太原盆地への帰還願望、漢族の華北平野への帰還願望を希薄化する関中中心政策を取ったことも注目される。
一方の北斉では、鄴と晋陽の二首都体制を取ったのだが、鄴の漢人官僚と晋陽の北族元勲との対立を解消できなかった。
このように、宇文泰が整備した諸制度は、胡漢のバランシングや富国強兵の観点から大変先進的なもので、その後北斉に逆転勝利して華北を統一する基礎となり、隋・唐が中華を統一する基礎ともなった。

②圧倒的優勢の東魏に対し、踏みとどまった粘り強さ
東魏は北魏の根源地である太原盆地、中華の先進地である華北平野を掌握していた。六鎮のほとんども東魏についた。西魏は渭水盆地などを掌握していたが、とても対抗できない国力差だった。唐代の史書「通典」の食貨七-歴代盛衰戸口によると北斉の人口2000万程度に対し、北周は人口900万程度であったと記されている(南朝陳は人口200万)。宇文泰が高歓と対峙した頃は蜀を領有しておらず、東魏・西魏の人口差は更に大きかったと考えられる。さらに西暦536年、関中は飢饉に見舞われ、住民の7-8割が死ぬ事態となっていた(餓死だけでなく人肉食による犠牲もあった)。
高歓はこの機会に宇文泰討滅の兵を起こした。この時、高歓の20万人動員(一説には10万とも)に対し、宇文泰は1万人足らずしか動員できなかったとされる(史書には軽騎兵7000という記載もある 騎兵オンリー、7000…陳慶之!)。西魏は沙苑(陝西省渭南市)で迎撃したのだが、関中勢力にとって決定的な防衛線である黄河・潼関ラインを既に突破されていたということである。
そのような絶望的状況下で、宇文泰は高歓に対し奇跡的な勝利を収め、長安を死守した。
この沙苑の戦いにおける経緯は面白い。宇文泰は長安籠城策を退けて、大軍の運用に不利な湿地帯の沙苑で待ち受けた。高歓に長安奪取を勧める声もあったが、高歓は宇文泰との会戦に応じた。
この時の高歓の判断としては、こんなものだろう。「たとえ長安を奪取しても、宇文泰が南朝梁に亡命したり別の地に拠ったりしようものなら大変厄介な存在になる。宇文泰を討つなら、10倍以上の兵力で戦える今をおいて他にない。」
要は自分の首と長安を秤にかけさせて、より逆転する確率の高い判断と油断を引き出したのだ。
沙苑の戦勝後も、高歓との度重なる戦役で、しばしば敗北を喫しながらも決定的な破綻は回避し、均衡を維持し続けた。

③南朝梁の混乱に乗じて、蜀と江陵を掌握した政略のセンス
南朝梁は侯景の乱によって壊滅的打撃を受けた。
宇文泰はその混乱に乗じて、南朝から蜀を奪取した。更に、荊州の要といえる港湾都市の江陵に傀儡政権(後梁)を打ち立てることに成功した。
西魏の領土は、白起が楚の首都郢(のちの江陵)を占領した後の戦国秦にほぼ並んだ。
東魏との国力差は縮小したし、蜀が食糧生産力の高い地域であったことも重要である。黄河流域の穀物が不作でも、長江流域から米を得られるようになったのだ。この食糧自給の複線化により西魏の政権基盤は安定した。
さらに、多少の国力差なら跳ね返せる地勢を得たことも大きい。江陵に下流側から攻め寄せるのは負担が大きいし、黄河・潼関・函谷関を突破して長安を襲うのも同様である。
江陵を直轄領にせず、あえて後梁に支配させたことも巧手だ。後梁は南朝陳氏にとって旧主に当たり、ある意味南朝の正統である。同じ漢族王朝ということもあって、戦意を向けにくい相手なのだ。
江南と華北平野で一致団結していないうえ、国家運営の優劣が明らかな状況を考慮すると、西魏が蜀と江陵を領有した時点で戦国秦と同じ勝ちパターンに入ったと言っても過言ではない。

北斉の皇族高氏は総じて酒乱かつ短慮な者が多く、その資質は大いに西魏・北周を利したのだが、それだけでは北斉を逆転する上で不十分であった。府兵制に代表される制度設計の差こそが決定的であり、それらの整備にあたって宇文泰の果たした役割は多大であると言わざるを得ない。
また、高氏の中で前述の弱点に乏しい高歓、彼と対峙したのは勢力的に最も劣った時期でもあった。その高歓の攻勢をしのぎ切ったのは、やはり宇文泰の底力と言うしかない。

宇文泰が南北朝最高の指導者であるのは間違いないが、中国史全体で見ても、その文武における先見性は卓越していた。

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