三武一宗の法難という歴史用語がある。拓跋燾(北魏の太武帝)・宇文邕(北周の武帝)・李瀍(唐の武宗)・柴栄(後周の世宗)が主導した仏教への排撃運動を指す。
李瀍による会昌の廃仏を過小評価し、他の廃仏を過大評価しているという批判もあり、最近この用語は使われなくなっている。とはいえ、一つの目安とはなるだろう。
魏晋南北朝では、拓跋燾と宇文邕の二人が該当する。ともに華北統一を成し、政治・軍事的には成功を収めたと評するべき君主たちである。彼らの廃仏について検討してみたい。今回は後編として北周の宇文邕を取り上げる。
支配者から見た仏教の利害に関する一般論は、その1で述べたので割愛する。
西暦538年12月(旧暦)の資治通鑑によると、正光年間(520-525年)以後の北魏は四方での戦が続き、多くの民が賦役を避けるため僧尼となり、200万人に至った。寺の数は3万を超えた。このため、東魏から寺の建立を制限する詔が出ている。
520年時点の北魏人口は3000万人、577年時点の北斉人口は2000万人(北周900万、陳240万)であり(維基百科-南北朝-魏晉南北朝戶口流動表による)、200万の生産人口を失う経済的インパクトはかなり大きい。北魏末以来、仏教名義の賦役逃れが現実的な社会問題となっていたのだ。
北周の事情
573年12月、宇文邕は群臣・沙門・道士を集めて議論し、儒・道・仏の序列とした。周という国号が象徴するように、北周は儒教を極めて重視する国家だった。
574年5月、周は仏教・道教を禁じ、経典・仏像を毀し、沙門・道士を還俗させた。一説によると、この時還俗させられた僧尼は300万人に上り、その一部が軍に編入されたという(佐藤悦成 「寺院遺蹟についての調査報告」)。
574年6月、周は通道観を設置し、国家主導による三教の統合を目指した。
575年より、周は斉への本格的な侵攻を開始している。その直前に行われた廃仏は、富国強兵策と考えるのが自然であろう。
577年に周は北斉を攻め滅ぼし、斉の旧領内でも仏教・道教の廃毀を行った。
578年5月、前月に北辺を侵した突厥に対し、宇文邕は親征の軍を発したが、直後に病気となり、6月に急逝した。宇文邕の死に伴い、周の宗教廃毀政策は撤回となった。
宇文邕の廃仏に関連して言及すべき君主達
・簫衍(南朝梁の武帝)
簫衍が晩年、仏教への傾倒によって梁を傾けたというのは有名な話である。国を統治する上で、簫衍の失敗からどのような教訓を得るべきか、北周での検証は当然行われていただろう。
・高緯(北斉の後主)
575年2月の資治通鑑に、高緯の行いとして、「毎有災異寇盗不自貶損唯多設齋以為脩徳」と記されている。「唯だ多く齋を設け」の訳が肝になるのだけれど、難しい。渡辺省は、通鑑紀事本末の該当箇所を寺院への寄進と解釈している。
高緯は為政者として数多くの過ちを犯したが、あるいは国税を仏寺に注ぐだけで有事への対応を終えたとする態度もまた、亡国に寄与する1要素だったのかもしれない。
・李淵(唐の高祖)
566年生まれの李淵は宇文邕の廃仏を経験している。李淵は唐の建国後に、廃仏を試みようとした。宇文邕同様に道教も廃毀の対象となった。
李淵が統治者としての宇文邕をどう評価していたか、窺い知ることができる。また、李淵の正妻竇氏は叔父の宇文邕に養育されており、彼女が宇文邕を大層敬愛していたことを考慮すべきである。
李淵の廃仏は長安に3か所・州ごとに1か所の寺院しか残さない徹底的なもので、中国史上最大とされる会昌の廃仏(長安・洛陽に4か所、州ごとに1か所)以上に厳しい措置だった。
ところが、李世民による政変(玄武門の変)のため李淵が退位し、廃仏は沙汰止みとなった。老子(李耳)の末裔と称した李世民は道教を国教に据えたものの、仏教を排斥することはなかった。
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