殷周革命の実像を想像してみる

近年、甲骨文・金文(青銅器に記された文)・清華大学蔵戦国竹簡(清華簡)といった古文字資料の読解が進められており、殷周革命の実像が史記や尚書(書経)の記述そのままではないと示されつつある。
古文字資料の知見を織り交ぜつつ、想像を膨らませてみた。

殷の祭祀
かつて、中原(黄河中流域の南側、現在の河南省付近)に住む民が居た。
彼らは殷もしくは商と呼ばれ、その最高神は「帝」あるいは「上帝」。
現世を生きる人が帝に直接働きかけることはできない一方で、殷王の祖先は帝にアクセスできると考えられていた。
そのため、神として祭祀の対象となったのは帝でなく殷王の祖先だった。いつしか、王の祖先や現世王にも帝の称号が用いられるようになった。
殷王は一系統でなく、複数の氏族から交代で王を輩出し、それが諡号(貴人の死後に贈られる名)の十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)に現れているとされる。
殷の祭祀には人身御供を必要とし、専ら羌(西方の外民族とされるが、異説を後述)が生贄となった。実際、殷の首都であった殷墟(河南省安陽市殷都区)から羌族の人骨が大量に発掘されている。
殷は周囲の外民族と緊張関係にあったが、中華で初めて文字を開発した高度な文明力、高度な宗教体系、中原の生産力などを背景に優勢を維持していた。

殷周革命とその協力者
ある西方の民が、羌の有力者である呂尚(太公望)と協力して殷に東征を仕掛け、倒した末に周王朝を建てた。
この時、殷から西史召と称され、祭祀面で殷を支えていた召族が周に付いた。召公奭は姫発の弟で周王の同族とされてきたが、実際には違ったことになる。
また、呂尚についても、斉初期の国主に十干諡号を使っていることから、殷に比較的近い種族であった可能性が指摘されている。

周の祭祀と殷への扱い
周の最高神は「天」。天は現世の人が直接祭祀の対象とできる一方で、人は天に並ぶことができなかった。君主であっても「天子」つまり天の子までである。
周はもともと殷の宗教的支配の下にあり、周王朝成立後も中華の文明中心における帝信仰の影響は免れなかった。折衷の結果、「天帝」あるいは「昊天上帝」が最高神として定着した。
勝利した周は殷に対する歴史上の修飾を加えた。歴代殷王が帝の称号に値しないものとし、子受(紂王、帝辛)も王に相応しくない暴君であるよう記した。
帝の上位称号とされる「皇」も後世に追加されたものである。古代神話には、古い神々ほど新しく上に重ねられる傾向があり、富永仲基(江戸時代の思想家)の提唱した加上説の一例といえよう。

周の東方植民
周は殷の故地に大規模な植民を行い、東へ移住した者達は殷の民との通婚が進んでいった。
やがて、中原に根付いた自らこそが中華の中心種族であるという意識を持つようになった。

周は太公望をどう遇したか
中華の主となった周にとって、外部の功臣である呂尚の扱いは重要な問題となる。
呂尚は東方植民の一団に選ばれ、さらに斉の諸侯という態で東の果てとなる山東まで異動させられた。羌の根拠地である西方から最も遠い位置に封じられた点も重要である。
そして、姫旦(周公旦)の一族が封じられた魯は、斉から中央に向かう途上であり、呂尚への抑えとして配置された可能性がある。
姫旦が呂尚の斉統治と姫伯禽(姫旦の息子)の魯統治を比較し、前者が勝ることを嘆く故事は広く知られる。このとき姫旦が嘆いた理由は魯の役割にあったのかもしれない。

周は召公をどう遇したか
東へ遷された呂尚に対し、召公は首都圏である召(陝西省宝鶏市岐山県)の地に置かれた。
召公は周において皇天尹大保と称され、天への祀りを管轄する長官の地位を与えられた。
三公の一角である太保はこの官位に由来すると思われる。ちなみに呂尚が三公の主席となる太師で、姫旦が次席の太傅である。

周は周公旦をどう遇したか
姫発(武王)の死後、姫旦が周王を代行したと史書に記されているが、古文字資料によると、そもそも姫旦は王となっておらず、早々に姫誦(成王)が周を主導していた可能性が指摘されている。
姫旦の一族が東方植民の一団に選ばれたうえ、国名に魯(おろか、にぶい)という芳しくない字があてがわれたことは、注意しておくべきだろう。
姫旦は天子でなかったものの、東方における影響力が相当大きかったようだ。召公奭と姫旦による分陝(陝=河南省三門峡市陝州区を境に、西を召公奭の領分、東を姫旦の領分とした故事)は広く知られるが、姫誦・召公奭・姫旦らによる微妙な権力関係が伺える。
姫誦は姫旦に対抗するため召公奭を立てたのかもしれない。
呂尚は姫誦の母方祖父であり、姫旦が早々に西側への支配力を失うのは、羌の影響によるのかもしれない。

三監の乱の史実性と成王のリーダーシップ
姫旦の即位が実際には行われていない以上、三監の乱(姫発の弟である管叔鮮・蔡叔度・霍叔処が姫旦の摂政に反して起こした乱)についても修正が必要となる。
殷系氏族は殷王の子孫である彔子聖(武庚)を旗頭として周に叛逆した。清華簡によると、管叔鮮らは周の監視役として叛徒に殺されている。
この乱は姫誦主導で鎮圧され、姫誦は洛陽(河南省洛陽市)に成周城を築いて殷の残存勢力を集めた(従来は乱鎮圧と成周造営が姫旦の事業とされていた)。
文字通り、この時に周による統一が成ったと見なすべきである。

王姜から太公望と殷の関わりの深さを推測する
姫誦の妻である王姜は、殷の祭祀言語について素養を持ち、周王と殷系氏族との折衝を行っていたとされる。
十干諡号と同様に、呂尚の属する姜姓がもともと殷系氏族だったことの傍証となろう。

王の戦死と周の動揺
姫誦の孫である姫瑕(昭王)が南征中に戦死した。これは周王のカリスマ喪失を示す重大事であり、周の国家運営は新たな局面を迎えていくこととなった。

参考文献
高島敏夫 殷周革命論ノート 1~5
渡邉義浩 殷周革命をめぐる物語の展開
吉池孝一 武丁時代甲骨文にみる神と王

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