各王朝は誰を太祖にしたか

父に武の諡号を贈った曹丕と父に文の諡号を贈った司馬炎、どちらが親孝行だったかという議論を行うことがあるけれども、どちらも太祖の廟号を贈っていることで議論を終えていいのではないかと思っている。

太祖は廟号の中で飛びぬけて重要な位置づけである。
天子七廟とよく言われるとおり、皇帝は祖先を7人祀る必要がある。祖先は交互に昭・穆とされ、世代が変わるごとに宗廟から押し出されていく。高祖や世祖といった格の高い廟号も例外ではない(遠祖だが功績の大きい者を祧とし、2人を天子七廟に加えるケースがある)。
太祖だけは例外で、世代が下っても常に廟の中央に配され続ける。
太祖は宗廟において別格の存在であり、誰を太祖にしたかは、諡号と同様に各王朝を理解する上で参照すべき材料といえる。

西漢(前漢)・東漢(後漢)・蜀漢
西漢の太祖は劉邦で、諡号は高。史記の影響で高祖という呼称が一般化しているが、実際の廟号は異なることに注意が必要である。
高という諡号についてBaiduWikiに当たったところ、諡法に「徳覆万物曰高、功徳盛大曰高、覆帱同天曰高(覆帱=覆い包む)」とあることが記されていた。蘇洵(北宋の文人で蘇軾・蘇轍の父)撰の「諡法 巻二」には「徳覆萬物曰髙」のみが記されており、「逸周書 諡法解」や「史記正義 論例諡法觧」を当たってみたが高についての記載はない。
東漢の劉熙による「諡法」、魏晋の杜預による「春秋諡法」、南朝の沈約による「諡例」、南朝梁の賀琛による「新諡法」、これら諸家による諡法解説を宋代にまとめた「編定六家諡法」等については原文を参照できなかった。
劉邦に初めて用いられた諡号であり、周までの伝統から逸脱した規格外の諡号として設定されたものと思われる。
東漢・蜀漢は西漢を踏襲しており、劉秀(廟号は世祖、諡号は光武)・劉備(廟号は烈祖、諡号は昭烈)らが太祖になることはなかった。

曹魏
曹魏の太祖は曹操で、諡号は武。
曹叡(廟号は烈祖、諡号は明)は、曹操の養祖父であった曹騰の諡号を高とした。高は特別な諡号であり、曹騰に相応しいとは到底思えない。従来から言われていた奢侈も含めて、その無秩序ぶりは批判されるべきだろう。

孫呉
孫呉の太祖は孫権で、諡号は大。
大という諡号についてBaiduWikiに当たったところ、「逸周書 諡法解」に「則天法堯曰大」とあることが記されていた。実際に「逸周書 諡法解」を読んでみたが、該当する記載は無かった。
孫権に初めて用いられた諡号であり、その奇抜さはしばしば批判の対象となったが、高と同様の意図が想定される。

西晋・東晋
晋の皇帝となった司馬炎(廟号は世祖、諡号は武)は、太祖を父の司馬昭(諡号は文)とした。
一方で、宋書:卷十六志第六 禮三では面白い記載がある。
晋の宗廟は最初から司馬懿(廟号は高祖、諡号は宣)を「永久宗廟首位としての太祖」と見なしていたが、司馬懿が今上から6世代(三昭・三穆)に含まれるうちは太祖を空位としていた。ところが、兄弟間の継承を一昭もしくは一穆として一纏めに扱うルール、上の世代が皇帝位を継承した事態などにより、司馬曜(廟号は烈宗、諡号は孝武)の頃になっても太祖が空位であったのだ(より精緻な議論については、新田元規「萬斯同『廟制圖考』の歴代廟制論」、古橋紀宏 「鄭玄の天子宗廟説と緯書・『偽古文尚書』」などを参照のこと)。
これについては、晋における皇統の複雑な推移を考慮すべきだろう。八王の乱で司馬倫は一時的に皇帝となった。司馬倫は司馬昭の血を引いていないが、司馬懿の血を引いている。太祖が司馬昭では明らかに不都合なので、司馬懿に変更した可能性がある。東晋を開いた司馬睿(廟号は中宗、諡号は元)は、司馬昭の傍系だが司馬懿の直系であり、やはり司馬懿を太祖とした方が好都合である。
また、司馬顒や司馬越が他の者を皇帝に立てざるを得なかったのは、司馬懿の傍系だったことに由来しそうだ。流石に司馬防(司馬懿の父、祭祀の場では京兆府君と記される)等を太祖にするのは無理筋だったろう。

匈奴漢・前趙
もともと劉淵(諡号は光文)の廟号は高祖であり、西漢の踏襲を思わせる。
ところが、劉曜は国号を漢から趙へ改めるとともに劉淵を太祖とした(諡号は変更なし)。漢の後継という名目を国号・太祖の両面で改めたことになる。しかも、劉曜は劉淵の傍系であり、色々と疑問の残る廟号設定となっている。

後趙
後趙の太祖は石虎で、諡号は武。王朝創始者である石勒の廟号は高祖で、諡号は明。
石虎は石勒の直系でなく、石勒を太祖に据えられなかった事情がなんとなく察せられる。

前涼
前涼の太祖は張軌で、諡号は武穆。

成漢
成漢に太祖は居ない。始祖の廟号を持つ李特(諡号は景)が宗廟首位であったと思われる。

冉魏
冉魏に太祖は居ない。
冉閔が魏国を興すと、父である冉瞻に烈祖の廟号と高の諡号を贈ったが、高の諡号に相応しい功績であったとは思えない。漢族の国を標榜しながら東晋を重んじることなく皇帝を自称したことといい、やはり色々と足りない王朝であった。

前仇池・後仇池
仇池に廟号の判明している者は居ない。

前燕・後燕・南燕・西燕・北燕
前燕の太祖は慕容皝で、諡号は文明。
後燕は前燕を引き継いでおり、慕容垂の廟号は世祖である(諡号は成武)。慕容皝の直系であったため、不都合はなかった。
南燕は前燕を引き継いでおり、慕容徳の廟号は世宗である(諡号は献武)。慕容皝の直系であったため、不都合はなかった。慕容超(末主)は慕容徳の甥であるが、依然として慕容皝の直系であり、問題ない。
西燕で廟号が判明しているのは慕容泓の粛宗のみである。前燕の正統に近い成り立ちから、前燕を引き継いで慕容皝を太祖にしたと思われる。段随は段部でありながら西燕の君主となっており、どのように整合性を確保したのか分からない。
北燕の太祖は馮跋で、諡号は文成。皇帝の家系が変わっているので致し方ない処置と思われる。馮弘(諡号は昭成)は馮跋の弟であり、太祖の傍系が即位したことになる。

前秦
前秦の太祖は苻洪で、諡号は恵武。
苻登(廟号は太宗、諡号は高)・苻崇(末帝)が苻洪の直系であったか確認できない。どのように辻褄を合わせたのだろうか。
苻登に関しては、高の諡号を使用している点にも注意する必要がある。苻登死亡時点で前秦の衰運は明らかであり、ヤケクソというほかない。

後秦
後秦の太祖は姚萇で、諡号は武昭。

西秦
西秦の太祖は乞伏熾磐で、諡号は文昭。
2026/8/10時点のWikipediaでは、乞伏暮末(後主)が乞伏乾帰(廟号は高祖、諡号は武元)の次子と記されており、乞伏熾磐の傍系になってしまうが、実際には乞伏熾磐の次子なので問題ない。

翟魏
翟魏に廟号の判明している者は居ない。

後涼
後涼の太祖は呂光で、諡号は懿武。
呂隆(後主)の父は、呂光の弟である呂宝のため、若干無理がある。

南涼
南涼で廟号が判明しているのは、禿髪烏孤の烈祖のみである。

北涼
北涼の太祖は沮渠蒙遜で、諡号は武宣。

西涼
西涼の太祖は李暠で、諡号は武昭。

夏
夏の太祖は劉衛辰(赫連勃勃の父)で、諡号は桓。王朝創始者である赫連勃勃の廟号は世祖で、諡号は武烈。

桓楚
東晋から禅譲を受け、一時的に楚の皇帝となった桓玄(諡号は武悼)は、父の桓温を太祖・宣武帝とした。

譙蜀(後蜀)
譙蜀に廟号の判明している者は居ない。

南朝劉宋
南朝劉宋の太祖は劉義隆で、諡号は文。王朝創始者である劉裕の廟号は高祖で、諡号は武。
南朝劉宋については、晋と同様に「永久宗廟首位としての太祖」を劉裕に設定していたという議論がある(新田元規 萬斯同『廟制圖考』の歴代廟制論)。

南朝斉
南朝斉の太祖は蕭道成で、諡号は高。高は特別な諡号であり、南朝において皇帝権威が失墜していた状況への抵抗と考えるのが妥当だろうか。
蕭鸞(廟号は高祖、諡号は明)の父親は、蕭道成の兄である蕭道生。南朝斉の皇統は、太祖の傍系に移るという大きな矛盾を抱えることとなった。

南朝梁・後梁
南朝梁の太祖は蕭順之(蕭衍の父)で、諡号は文。王朝創始者である蕭衍の廟号は高祖で、諡号は武。
南朝斉と同じ蘭陵蕭氏でありながら国号を変えた理由は、蕭鸞以降が抱えていた皇統の矛盾にあったのかもしれない(戸川貴行 斉梁革命と『周礼』の関係について)。
後梁は南朝梁を踏襲したと思われる。

南朝陳
南朝陳の太祖は陳文賛(陳覇先の父)で、諡号は景。王朝創始者である陳覇先の廟号は高祖で、諡号は武。
陳蒨(廟号は世祖、諡号は文)と陳頊(廟号は高宗、諡号は宣)の父親は、陳覇先の兄である陳道談だが、太祖陳文賛の直系ではあるので皇統に矛盾を生じない。

北魏・東魏・西魏
北魏の太祖は拓跋鬱律(拓跋珪の曽祖父、諡号は平文)であったが、元宏(廟号は高祖、諡号は孝文)は拓跋珪を烈祖・宣武帝から太祖・道武帝に改めた。元宏の事跡からすると、魏という中華王朝としての性格を強調して北辺の出自(拓跋部・代)を切り離そうとした意図が読み取れる。
東魏・西魏は北魏を引き継いだと思われる。

北斉
北斉の太祖は高歓で、諡号は献武。
高緯(後主)は高歓を追尊して、高祖神武帝とした。代わりの太祖は据えられておらず、どのような意図による変更か不明である。自身の死後に太祖へ収まるつもりで空位としたのだろうか。いずれにせよ北斉末の乱脈を反映している。

北周
北周の太祖は宇文泰で、諡号は文。
宇文護があれほどの権勢を持ちながら他の者を皇帝に立てざるを得なかったのは、宇文泰の傍系だったことに由来する。太祖宇文泰はそれほど大きな壁だった。

隋
隋の太祖は楊忠(楊堅の父)で、諡号は武元。王朝創始者である楊堅の廟号は高祖で、諡号は文。

唐
唐の太祖は李虎(李淵の祖父)で、諡号は景。王朝創始者である李淵の廟号は高祖。中華統一を果たした李世民の廟号は太宗。
唐以降の諡号は冗長になり、皇帝個人を指す場合はもっぱら廟号もしくは年号(一世一元の制を採用した明と清)を用いることになった。

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